Temple

相国寺
(しょうこくじ)

上京区烏丸今出川上ル

05/3/22


臨済宗相国寺派総本山

 

同志社大学の北隣にある相国寺。

学生時代、つい近所にあり、名前はしょっちゅう聞いていたのについに行かずじまい(>_<)
今、初めて門をくぐりました(>_<)

街のど真ん中にあるのに、静か。しばし外の喧騒を忘れる、別天地です。

しかし相国寺の境内にいると、同志社の煉瓦の建物が見えます。とても不思議な気持ちになります。
ここはどこ?私は誰?状態になってしまうのです。

相国寺は由緒正しい古いお寺で、静かな境内にいると、時を忘れてしまいます。
なのにすぐ横に、瀟洒な煉瓦建築。京都って不思議。
室町時代と明治時代がパラレルで存在しているかのような。時代がぐちゃぐちゃです。
いつの時代にいるのだろう、そんな感じを持ってしまうのです。

 


ここは法堂(はっとう) 重要文化財。

相国寺は、もともと足利義満が発願し禅の修業のため作った禅寺。夢窓国師を開山とし(単語の意味が分からず使っている)、京都五山のひとつに数えられる夢窓派の中心禅林だということです。
とにかく、義満のころに作られたものだから古い。最初に作られたのは1392年という。
当初は、それはそれは広大な土地を有し、今の何倍もの広大な寺だったらしい。

ところが例によって応仁の乱で焼失。規模を縮小して再建。しかし再び天命の大火で焼失。焼けるたびに小さくなっていって、今の形になったというが、それでも同志社の北側にかなりの広い境内を持っているのです。
往時はさぞや広く、権勢を誇ったのであろうよ。

 


看板には、「雁の寺」はこちらと書かれている。
非公開だけれど、水上勉の名作の舞台となった寺(塔頭・瑞春院)があるようだ。

相国寺は禅寺だけに渋い。観光客にはあまり知られていないお寺だと思います。まあ、真っ先に行こうと思うほどには、ポピュラーではないですから。
でも、私はかなり好きです。禅寺というのは落ちついていていい。

観光客がいるにはいるけど、そんなに沢山はいない。
広い境内には松が無数に植えられていて、松林のようです。この松林の中の石畳をのんびり歩いていると、外の喧騒を忘れてしまいます。
すぐ外側には烏丸通があり、そこは学生街で、紛れもないフツーの町で、フツーに人が行き来しているというのに。

 


鐘楼。
江戸時代の再建なので、古いものではない
ぶらぶら歩いていると見えて来る
これらの奥に法堂や美術館がある

往時より狭くなったといいましたが、相国寺の境内を上立売通が貫いています(!)。
人々は、平気で相国寺の中を自転車で走って行きます。通勤の人や、通学の人が当たり前に境内を横切って行くのです。
どやねん。広いやんっ。

というか、ここは例によっていろいろなお寺が他にも集まっています。これがよく分からない(@_@)。別の寺なのか、相国寺の一部なのか、分からない。ま、いいか。

*えー。これらは、塔頭(たっちゅう)というものです。
よく分からないが、塔頭が寄り集まって、ひとつのお寺として成っている(…のか?)。

 


法堂。松林側から

 

法堂(はっとう)は、豊臣秀頼によって1605年に再興されたという、桃山時代の遺構を今に伝えている重要文化財。

寺としては門をくぐり、境内をずっと歩くと右に鐘楼があり左に茶室(?)があり、松林があり、そして法堂、方丈、そのむこうに承天閣美術館という形。

 

私が行ったのは、相国寺の特別拝観期間中でした。
法堂(はっとう)の中が特別公開されていたので、行ってみた。
禅の修業に使われていたので、そっけない内部です。それがまたいい。でも今は、床はコンクリで固めてあったと思う。

法堂の中には、仏さんはあまり主張していません。それでも釈迦如来が本尊だそうで、伝運慶作というがどうよ?
それよりも、相国寺で有名なのは天井の龍の図。狩野光信作だという、天井の円形の中に描かれた、荒々しい龍。見事で思わず声をあげてしまいます。
で、これが「鳴き龍」だそうで、この龍の下のある位置で手を叩けばエコーとなって、ぱらぱらぱらと、まるで龍が泣くような音がする、というのです(龍の鳴き声って知ってるのか)。

 

堂内には説明をしてくれるおじさんがいらっしゃって、丁寧に解説して下さいます。
女性だけこっち来なさい、と言って、龍図の下に手招きして、手を叩かせてくれる。
私が手を叩いても上手に響いてくれない。そしたら、おじさんは何度も何度も私に手を叩かせてくれた。
「あんたのはきれいすぎる」とか言う。音がきれい過ぎて響かないのだと言う。そんなで、沢山の人がいたのに、私に何度も、響くまで叩かせてくれました。うーん、美人ってトク(アホ)。

 


方丈庭

方丈というのは、どういうのでしょうか、知らない(>_<)が、そういう建物があります。そこにも、寺宝があり、特別公開していました。

法華観音という美しい(ロマンチックな)観音菩薩を描いた軸物は、すべて観音経の経文の文字で描かれている…という。観音さまの輪郭が小さい文字になっていて、びっしりと文字で絵が描かれているのです。
遠くからしか見られませんが、入り口に拡大図があって、それで確認するという寸法。江戸時代のものだそうです。

方丈の裏庭は枯れ山水。小さくて、あまり自己主張のない庭ですが、良かった。もうね、安らぎます。有名な庭園でなくて、こういう、枯れた感じが、なごみます。

 


浴室

そして、浴室も公開されていた。

1400年ころ創建され、桃山時代に再建され(1度消失したのだろう)、そして現在のはそれを復興したものということで、建物自体はそれほど古いことはないけれど(江戸時代のもののようだ)、でもすごい。何といってもお風呂だもの。

蒸し風呂と掛け湯を兼ね備えた形態で、「京洛の禅宗寺院でも最も古いもののひとつ」、ということで、幕末ころまで実際に使用されていたという。

禅宗のお風呂というのは、禅の修行の一環(?)だったらしい。お作法などもあったという。義満も、作法どおりにお風呂に入り、修行をしたのだという。
お風呂でも説明係の人がいて、そのように説明してくれたのだ。

かつて、実際に使われていたアイテムが展示されていたが、もうびっくりする。
ばらばらになった風呂桶が、ばらしたまま展示されているのだ。面白い。面白すぎる。

しかも、浴室の入り口には、小さくて、新しいものだが、怪しい菩薩さまが飾ってある(名前は忘れた。ものすごく覚えにくい、むつかしい名前だった)。
それはお風呂の守り本尊だそうで、なんと、お風呂の水をかき回す、船のオールのようなものを、その菩薩さまは抱えているのだ!面白い。面白すぎるぜ、相国寺。

 


承天閣美術館の入り口

さて、相国寺には、承天閣美術館が併設されている。位置的にはお寺の右奥。
写真の入り口をくぐると庭園が広がっている。まるで、高級料亭のような佇まいだ。
本当に美術館があるのか?と不安にさえなる。

 

この、瀟洒な庭園。写真の左側に美術館がある。

この美術館は、京都でも最も風雅な美術館ではないだろうか。そんなに大きなものではない。展示されているものも、びっくりするようなものはない。
ただ靴を脱いで入る。
脱いだ靴は、下駄箱に入れる。
番号札とか、ポリ袋とか、一切なし。下駄箱といっても、蓋のない、木枠の棚があるだけで、そこに靴を入れるだけ。
美術館へは裸足で、スリッパもない。田舎の旅館か、ここは。いや、旅館でもスリッパくらいあるぞ。

そんなのんきな、下界の喧騒が嘘みたいな、別天地の、天国のような美術館です。

展示されているのは、茶道関係が多い。茶道具とか、お茶碗とか。掛け軸とかです。
古くて黒ずんだ茶しゃくが飾られていたりするのがなかなか趣きです。
茶道具の、茶碗とかなつめや茶せんが飾ってある台の後ろの壁に、掛け軸がかけられているディスプレイがいいです。

そして、足利義満の僧形の木像がある。当然といえば当然ですが、古いものではない。
義満は、京都では尊ばれている存在です。

 

しかし、何と言ってもここには、金閣寺のために描かれた、伊藤若冲の襖絵が委託品として飾られているのがウリ。
「葡萄図」と「芭蕉図」のふたつ。

「芭蕉図」というのは、バナナの木のことです。南国風の木の葉っぱが野性的でちょっとびっくり。「葡萄図」とも墨絵なのにカラフルな感じがして素敵であった。
襖絵なので、襖のしつらえを再現して展示されていたが、やはり本当に襖としてあった方が、値打があるような気はします…。保存と公開の攻めぎ合いは難しいものです。


鐘楼の反対側にあったちっこい建物だけど何なのか分からない。
多分茶室?

なぜ相国寺付属美術館に若冲があるのか。
またなぜ金閣寺の襖絵を若冲が書いたのか。金閣寺の襖絵がなぜ承天閣美術館にあるのか。

それは、若冲が熱心な禅宗の宗徒だったことに関連する。

当時、江戸時代、相国寺の禅僧、大典という人と、若冲は友達(?)だった。

相国寺は京都五山の第二位に列せられる、禅宗の大寺院。金閣寺、つまり、鹿苑寺はこの相国寺に属する、相国寺派の末寺という身分だったのだ。

そして、大典という禅僧が若冲を贔屓にしていたので、鹿苑寺の襖絵の仕事に、若冲を抜擢したのだろう。
そういうわけで、若冲が金閣寺の絵を描いたのだった。

この承天閣美術館に若冲の鹿苑寺の襖絵があるのも、そういうわけだ。


法堂

さらに、私はなぜ宮内庁に若冲の絵があるかと腹を立てていたのだが、そのわけはこうだ。

明治時代に廃仏毀釈の残酷な運動があった。
その時、相国寺も被害に遭いそうになり、相国寺のために若冲が描いた「動植綵絵」を、宮内庁に献上したのだそうだ。

つまり、今宮内庁にある「動植綵絵」は、若冲が相国寺と相国寺の僧、大典のために描いたもので、相国寺に寄進し、相国寺にずっと保存されていたものだったのだ。

ええい、もともと京都にあったものなのだ。
返せ、戻せ宮内庁。相国寺に戻せ。
もとはと言えば、廃仏毀釈のせいでやむなく京都から出て行ったのだ。

思わず感情的になってしまった。

落ち着いた禅寺、相国寺のページにもあるまじき行為であった。

そういうわけで、相国寺は渋い、大人の寺でした。

<近所> 同志社御所下鴨神社


参考  京都・今出川特別名宝展ちらし

    週刊「日本の美をめぐる」 驚異のまなざし伊藤若冲 小学館

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