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レオナルド・ダ・ビンチ 最後の晩餐
Leonardo da Vinci The Last Supper

 

レオナルドの最高傑作であり大失敗作である「最後の晩餐」。

ものすごく見にくい画像です。でもこれはオリジナル自体の剥落がひどく、
       殆ど原型を留めていないと言われるほどのひどい保存状態だからなのだ。

*

最近大規模な修復作業が終わり、レオナルド自身の手になった時のものに最も近い状態に戻されました。

でもそれには欠落がそのままで残されたりして、そこに疑問を感じる人も多いという。かくいう私もそのひとり。

何がなんでもレオナルドの時代そのものに戻すというより、それに無理があるのならば、
        臨機応変に、欠落部分は違和感のない程度に補うということもあってよかったのではないか。

人類の遺産をもっとも望ましい形で保存したいのはやまやま。18世紀の修復家も大いに悩んだのではないか。

或いは、レオナルドの作に自分が筆を入れるという公然たる暴挙に、恍惚として画家の幸福を味わっていたのだろうか。

「最後の晩餐」のためのデッサン

 

ここにあげたのは修復前の「最後の晩餐」。 

修復後のものが世界の画集に載るのはもう少し先かもしれないけれど、

その時はあのぶざまな欠   落部分もそのまま載るのだろうか。

*

すべては新しい画法を試そうとしたレオナルドの無謀が原因といえば言えるのであった。

遅筆で知られたレオナルドは、壁を塗ったあと速攻で描き上げなければならないフレスコ画法ではなく、

じっくり描きこめるテンペラを壁画で試そうとしたのだった。

テンペラの材料と壁の素材がうまく融合せず、描いた直後から剥離が始まったという。

ただ、名曲は3分聞いても名曲だという。

ヴィスコンティの映画は10秒だけ見てもヴィスコンティであるように、

剥離し、ぼろぼろになり、穴だらけだったとしても、なお「最後の晩餐」は「最後の晩餐」であり、

その輝きは、傷だらけの画面の奥ふかくから私たちを射すくめる。

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修復後の画像を追加しました。
記念に修復前も残しておきます。 2017

最後の晩餐について語ったエッセイから転載→こちらに全文

 

ここから、レオナルドの「最後の晩餐」の場面を見て行こう。

ペテロがイエスの横にいたヨハネの肩を叩き、今仰った裏切り者とは誰かを聞いてくれ、とヨハネに言っている。
だから、ヨハネはイエスの胸から身を引き離している。

熱くなったペテロの右手には、ナイフが握られている。

なぜなら、ペテロは気が短く、すぐに熱くなると解釈されていたからだ。

(それは、イエスの逮捕の時の、聖書の描写による。ペテロは、イエスを逮捕しようとするローマ兵士の耳を切り落とした)

 

そのペテロのすぐそばで、テーブルに右腕をついているのがユダその人だ。

彼はイエスの言葉に、内心では非常に動揺しながらも、うわべでは冷静をとりつくろおうとしている、そんな形だ。

レオナルドが、ユダをテーブルの内側に置いたのは、その不自然さをなくすためであり、
自然な、「最後の晩餐」という緊迫したドラマを構築したかっただからだろう。

 

つまり、レオナルドの「最後の晩餐」では、ヨハネとペテロとユダという、
最後の晩餐における重要人物たちがひとつのグループにまとめられていて、
そのことにより、より緊迫したドラマを作り上げているのである。

*12弟子たちを、3人ごとの4つのグループにまとめている、というのはレオナルド「最後の晩餐」鑑賞における基本だ。

もう一度言うと、ヨハネとペテロとユダという、イエスの三人の弟子は、
「最後の晩餐」というドラマにおいては、欠かすことの出来ない重要人物たちなのだ。

イエスが主役とすれば、きわめて重要な副主人公たち、と言えるだろう。

 

イエスと、彼を巡る三人の弟子たちの心理のせめぎ合いが、「最後の晩餐」という絵の、重要な要素になっているのだ。

(中略)

レオナルドの「最後の晩餐」は、ユダが裏切り者である、ということを告発したいがためのものではない。

そう言ったことによって、弟子たちが大騒ぎをし、混乱する中で、
ものごとのうわべだけに終始する人々の間で、ひとり孤独であるイエスという人物の、底知れない悲しみを描きたかった。

そういうことではないのだろうか。

彼の愛する(とされている)ヨハネでさえ、彼の胸から身を引き剥がし、彼の孤独を知る由もないのだ。

 

***

ここから、ちょっと雑談めいた、聖書の解釈をしてみる。

 

イエスにとって、誰が裏切り者であるかを告発し糾弾することは、目的だったのではない。

 

 

イエスの弟子たちは、殆どが文盲(であると思われる)の、農民や漁民といった、教養のない労働者である。

教養はないが、純朴だった。イエスは、そんな彼らの純朴さを愛した。


貧しい労働者たちは二重の重税にあえぎ、神への高価な貢物をしなければ天国に入れない、と、
ユダヤの指導者たち(パリサイ人)に教えられたとおりのことを信じていた。

イエスは、そんな彼らに、貧しいからこそあなたがたは天国に行けるのだと言った。

高い貢物さえすれば天国へ行けるのではない。神を信じ、愛することで天国へ行けるのだと説いた。


それがゆえに、貧しい者たち、社会からはみ出た者たち、社会から相手にされなかった(病人など)者たちがイエスに従った。
彼らは、純粋にイエスを愛した。けれども、彼らは無教養であった。

 

彼ら(イエスに従った者たち、弟子たちも含む)がイエスに求めたのは、
奇跡によって病気を治してくれるような現世利益であり、
ローマからの独立を実現してくれる政治的リーダーとしての役割であり、要するに、貧しい生活からの脱却であった。

イエスが説いたのは、そのようなことではなかった。

ユダヤ人が貧しく、独立が不可能であるからこそ、それら現世的なものを求めるのではなく、
むしろ心を豊かにしなさい、ということであった。

けれども、そのようなイエスの教えは、弟子にさえ理解できるものではなかった。

イエスは孤独だった。

盲目的に彼について来る民衆や弟子たちを、愛してはいるが、彼らに理解してもらえない苦しみを抱えていた。

彼らはイエスを愛してはいるが、理解していなかった。

 

ペテロは、イエスが最後の晩餐で、裏切り者がいる、と告白した時に、私は死んでも主を裏切りません、と言った。

イエスは、あなたは鶏が鳴くまでに(世が明けるまでに)3度私を知らないと言うだろう、と言う。

ゲッセマネの園で、祈りを捧げたあと、眠りこけている弟子たちを見て、
イエスは私が祈っているほんの短い間でさえ、起きていることが出来ないのか、と歎息する。

イエスは弟子たちを見限っていたのではない。

彼らがごく普通の善良な人間であることを知っていた。

だからこそ、彼らの弱さをも理解していた。人は、弱いものなのだと。

だからこそ、彼らが自分を理解出来なくとも、彼らのことを愛したのだ。

***

 

レオナルドの「最後の晩餐」を見ていると、これら、聖書の文句が自然と思い浮かんで来る。

レオナルドは、「最後の晩餐」の、この一枚の画面の中に、イエスのこの孤独、
どれだけ愛していても、弟子たち(民衆)との間にある埋め難いギャップ、
自分が、とうとう彼らに理解してもらえなかった悲しみ、などを凝縮して描いたように、私には思われる。

ここには、福音書に描かれてあるすべての物語が、人間ドラマとして凝縮されているように思える。

そうして、そのために、この絵を見て感動するのである。

 

 

さらに言えば、キリスト教とは、この、イエス(の教え)を理解することが出来ず、
(弟子たちが)イエスを見殺しにしてしまった、というところから始まる。

イエスがその教えのために死んだことによって、弟子たちは目覚めた。

イエスが死をも厭わずに彼らを愛し抜いたことが、彼らを変えた。

弟子たちは、イエスの死によって初めて目覚め、以降、イエスの教えを広め、
そして、そのために師よりもひどい迫害にあい、それを甘受し殉教するほどの、激烈なキリスト者となってゆく。

一粒の麦がもし死ななければ…。イエスは文字通り、死ぬことによって、その教えを広めたのだ。

イエスの苦しみや、悲しみが、だから無駄ではなかった、と、ボンクラな弟子たちだったが、
彼らはいずれ、師の教えを悟り、全世界に師の教えを広めるだろう。

 

だからレオナルドの絵の、イエスのはるか後ろには、明るい陽が射しているように見える。

*

 

レオナルドは、聖書に描かれた「最後の晩餐」の場面を、忠実に絵にした。

これまでの画家が誰も描かなかったほどの忠実さで。

その「最後の晩餐」そのものが、歴史的事実かどうかとは関係なく。

絵画の真実とはそういうものだろう。

イエスのころのユダヤ人の食事では、テーブルがなかったという説もある。

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すみません。非常に長かったです。

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