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栄光のオランダ・フランドル絵画展

KUNSTHISTORISCHES MUSEUM WIEN

2004年7月17日〜10月11日
神戸市立博物館

04/9/14

 

ウィーン美術史美術館が所蔵するフェルメールの有名作品が日本で公開されるということで評判を呼び、全国で巡回されている展覧会である。

けれども残念ながら、私が最近見た展覧会の中では、ひときわどうでもいいというか、しょうもないというか、がっかりしたというか、つまらない展覧会であった。

フェルメールの他、レンブラントやルーベンスなどオランダ・フランドルの有名どころの画家が展示されていたけれども、どう見てもその画家のニ線級。あとは無名の画家、名前さえ分からない画家などで済ませているという手の抜き方。

別に無名の画家だからつまらない絵だ、と決めつけたいわけではない。

けれども、並べられた絵を見ていると、無名であったり、画家の名前さえ伝わっていないのには、それなりの理由があるのだということが、歴然としていた。
有名な画家との筆力のちがいはどうしようもなくはっきりと分かってしまうのだ。

歴史に残る素晴らしい絵と、そうでない無数の絵との違いを知る、という点では有益な展覧会だったかもしれない。
いい絵ばかり見ているだけでは、いい絵という物がどういうものか分からなくなる、ということがあるかもしれないから。
駄目な絵も見て初めて、いい絵の良さが分かるのだろう。

 


マシな絵 ルーベンス

 

ウィーン美術史美術館といえば、ヨーロッパでも名の聞こえた、すぐれた美術館だ。この間も京都で名品展をやっていたから、日本でもおなじみで、収蔵品には数知れない名品があることも、美術ファンなら周知だろう。

それなのに、この展覧会で出品されている作品の情けなさは、どうしたことだろう。しかも数が少ない。60点足らずである。
去年見た名品展がずらりといいものを並べていたのに比べて数段見劣りがするのはどうしようもない。

明らかに、フェルメールの「画家のアトリエ」一点頼みで、あとは無名作品でお茶を濁したという態度が見え見えだ。
「画家のアトリエ」だけではいかにも展覧会として成り立たないから、レンブラントなどの有名画家の作品もちょっと混ぜつつ、適当に寄せ集めた、ということだろう。

私の不満は、つまるところ、「画家のアトリエ」が、フェルメールがそんなすごいのか、ということに尽きると思う。


いつでも一定のクオリティ ヤン・ブリューゲル

 

こういうことは展覧会では良くあるといえば良くあることなのだ。

多分「モナリザ」が日本に来た時も、モナリザ一点だけを展示するわけには行かないから、ほかのどうでもいい作品を一緒に展示したと思う。

何年か前に見た、レオナルドの「白貂を抱く貴婦人」の展覧会もそうだった。

けれども、この「白貂」の展覧会は、本来なら一点頼みながら、その絵を持つ貴族の家の由来とコレクションの特徴など、周辺を充実させることで展覧会全体を興味深く見せていた。
一点頼みの展覧会としては模範的な構成で、不満を感じることなく見ることが出来た。

今回の、この「栄光のオランダ・フランドル」にはその工夫がまったくない。
いちおう、オランダ・フランドルという括りで絵を集めてあるようだが、それ以外に統一性はない。
だから、このように不満をたらたらと述べなければならないことになった。

ただ、そうは言っても、収穫はあった。

ひとつは腐ってもレンブラント、というので、レンブラントの絵は自画像と、聖書からの引用の絵があったが、特に自画像は、やはり絵としての求心力が、他の画家とは全然違う。
どうしようもなく、やはり画力というか、筆力が抜きん出ていることを否応なく知らしめてしまう、という点で、小品ではあったけれども、さすがと思わせるものなのだった。


レンブラントはさすが

そして、結構好きなファン・ダイクの絵が何点かあって、それもレンブラント同様、画力、筆力を感じた。
無名のどうでもいい絵と比べると、絵の構成も引き締まっている。求心力があるし、絵の具の塗りにも力もある。
ファン・ダイクは好きなので何となく、なぜかほっとしたのだった。

 


さらにマシなヴァン・ダイク

 

メインのフェルメールは、一番最後に、別室を設けて一点だけ特別に飾ってあった。

ご馳走は最後に取っておくというかたちなのか。
人は少なくなかったが、平日だったので思ったほどの人はいない。じゅうぶんに、絵の前に立ち尽し、思う存分見ることが出来た。

フェルメールの絵の中では大きい方だ。思いきって大きなキャンバスを使ってみたという感じだ。
描かれた部屋そのものに、リアリティを付与するためだったのではないだろうか。

一見して、誰かも言っていた意見だけれども、見てはいけないものを見た、という感じにさせる絵だ。

それは手前のカーテンの描写にもよる。
分厚いカーテンをこっそりとめくって、部屋の奥で展開されている秘事を見た、という感覚にさせてしまうのだ。
絵の約1/3ほどもあるカーテンの描写が、これが絵というよりも、扉を開けて、カーテンをめくり、じっさいに部屋の奥を覗いているという錯覚を与えてしまう。

絵の大きさが、ちょうど部屋を覗く、という行為にぴったりとはまる大きさである。だからこの大きさを採用したのではないか。

 

そういう意味では、ベラスケスの「ラス・メニナス」にも通じるような、錯視的なトリックによる傑作と言っていいのだろう。

歴史の女神クリオの持つ書物と、彼女の衣服の色は、それぞれフェルメールの色と言っていい黄色とブルーで、この絵のまたとないアクセントになっている。

少ない色合いの中の、さらに地味な色のアクセントなのに、こよなく印象的で、美しい。

手前の画家の後姿は神秘的で、サルバドール・ダリが繰り返し自己の作品に登場させただけのことはある不思議な存在感を持つ。
彼は描かれてから400年近くもずっと後姿で座ったまま、どのような顔かを我々に決して明かしてはくれないのだ。

すべては静謐な一室の中で、そのドラマは演じ続けられていた。私が見た時も、そしてこれからも永遠にそうなのだろう。

 

「画家のアトリエ」は確かに期待を裏切らない作品だった。すべての名作は、何がしかの謎を孕んでいるのだと思う。だから、何百年経っても人を惹きつけてやまないのだ。

ただ、フェルメールの作品の中で言うと最高傑作なのかどうか。

私としては、「牛乳を注ぐ女」が最高ではないかと思っているし、個人的に好きな作品は「真珠の耳飾りの少女」であり、「レースを編む女」であり、二つの風景画であったりする。

何が最高傑作か、それは個人個人で違うものであろうし、他人が決めつけるものでもないだろう。宣伝のためとは言え、安易に広告にそのような文句を挿入するやり方は賢明ではないのではないか。

 

展覧会というものには、トータルな展望が必要である。

ただひとつのすぐれた作品を見ることが出来たからそれでオッケーということではないと思う。

そういう点では前のフェルメールとその時代展の方が優れていたし、たとえ語るべき作品が他になくとも、統一が取れていれば、「白貂」のように質の良い展示を行なうことも出来る。

フェルメールの絵は見ることが出来たが、展覧会としてはたいしたことがなかったと言わざるをえない。

 

フェルメール

フェルメールとその時代展(真珠の耳飾りの少女)

映画「真珠の耳飾りの少女」へ

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