Movie Maniacs

太陽と月に背いて

Total Eclipse

1995年

英・仏・米合作

監督 アニエスカ・ホランド

主演 レオナルド・ディカプリオ デヴィッド・シューリス ロマーヌ・ポーランジェ

14/1/15

 

また見つかった

何が

永遠が

それは太陽と交わった、海だ

 

青春の一時期、ランボーに夢中になって、ランボー関連の本を集めまくっていた。

ランボーはあのころの私の、理想でありカリスマであり神でもあったのかもしれない。

ランボーという名前は、私に甘酸っぱい思い出を思い起こさせる。

 

この映画ははじめ、リバー・フェニックスのランボーで企画が始まったと聞くが、彼の死で頓挫し、やがてディカプリオにその役が回ってきたのだという。

私は、ランボーがディカプリオで良かったと思った。リバーのランボーでは強すぎる。ディカプリオのしなやかさがいい。

レオナルド・ディカプリオその時22歳、この時期、このタイミング、そこにランボーに出会った彼の幸運。いや、見る側の私たちのこれは幸運。これほどぴったりの役はまたとないだろう。

映画は想像通り、ディカプリオの映画であった。

彼の自由で恐れを知らぬ、悪魔のようで無邪気な天使でもある、その奔放な演技を見た時、今この年齢でしか出せない現せない輝きを、ディカプリオが映画をとおして発しているのだと思った。

彼は軽々とあの詩聖と呼ばれるランボーを演じのけていた。

私には思い入れ一方ならぬランボーだが、このランボーなら、ある。ヴェルレーヌが惚れぬくだけの魅力と鋼の強さが、ある。

ランボーにしては少し美しすぎる少年ではあった。だけども、美しく、倣岸でなくては年上の詩人の心をわしづかみにするこの役には不足だっただろう。

レオナルド・ディカプリオは、ヴェルレーヌが、そして私たちが骨抜きになるに相応しい美しい傲慢さをからだ全体から放っていた。

 

原題のトータル・エクリプスとは、皆既日食のことである。

太陽と月が一瞬出会い、そして永遠に別れてゆく。

そのさまを、詩人と詩人の一瞬の出会いと別れに象徴させたのだろう。

その出会いは、火花が散る如くに熱く激しく、そして悲劇的だった。だがその出会いは、文学史上の最も有名な伝説を生む。

 

ランボーがシャルルヴィルの田舎からパリにやって来た時から映画は始まる。

ランボー16歳、傍若無人な若者が、道徳よりも美を尊ぶ詩人ヴェルレーヌの琴線に触れる。

家庭も、若い妻もそっちのけでランボーに入れあげるヴェルレーヌ、その出会い、映画は伝説通りに描いてゆく。

ふたりに実際に同性愛関係があったのかどうか、どちらがとうだったかは、研究家は評価が分かれる。

だがふたりの交した手紙からはじゅうぶん、それを推測出来る。

この映画では、あったとする。

家庭を捨ててランボーのいる屋根裏部屋で同棲するヴェルレーヌ。

ランボーとて、ヴェルレーヌがいたからこそそれが詩作の原動力となったのである。

やがて出奔、ベルギーへの逃避行、垣間見せるランボーの稚気。まるで子供のようにはしゃぐ姿の幼くさえ見えるあどけなさ。これがランボー=ディカプリオの魅力で見惚れさせる。

そしてロンドンへ。

筋は少しずつ悲惨さを増してゆく。

働くことをしないランボーに業を煮やすヴェルレーヌ。

男ふたりの同棲の無残な現実。

書物で知り尽している筈の、ふたりの逃避行のどろどろした現実をスクリーンで見る衝撃。

それは決して理想的なものではない。我侭で自分本意の詩人同士がぶつかり合うのである。互いに無傷ではあれないのだ。

それでもランボー=ディカプリオは、その傲岸不遜な輝きを些かも鈍らせることなく、常にその存在に有無を言わせない。そこに舌を巻く。

「シド・アンド・ナンシー」で、シド・ヴィシャスを演じきったゲイリー・オールドマンを連想させもして、演技という以前に、彼の存在感はそこに確かなのである。

 

詩人ふたりの道行きは、ヴェルレーヌがランボーを銃で撃つ、という破局を迎え、そして日蝕の如く彼らは別れゆく。

ランボーは僅か19歳で詩を捨て、アフリカへ旅発つ。

ヴェルレーヌは監獄へ収監され、そこでカソリックに目覚める。

伝記ではヴェルレーヌはその後、ランボーをはじめとする埋もれた詩人の作品を刊行することに尽力する。

彼はランボーの少ない詩作品を、パリで公にすることに力を尽した。その点で、ヴェルレーヌは愛憎を超えて立派であった。

 

映画の最後、ヴェルレーヌはランボーの作品は、自分たちの共作だった、と言う。

映画のヴェルレーヌは若き日のランボーの青春の姿を忘れ得ぬ美しい思い出と、その心に抱き続けていたとする。

ランボーは、誰にとっても青春の輝き、青春というものの代名詞でもあったのかもしれない。

脚本はイギリスのクリストファー・ハンプトン、ヴェルレーヌの思いに託してランバルディアンの心を代弁したのかとも思う。

ラスト、映画はちょっとしたプレゼントをランバルディアンに贈る。

また見つかった、何が、永遠が。太陽と繋がった海だ。

有名なあの詩を、ランボーとヴェルレーヌが掛け合いで朗読するのだ。いや、ヴェルレーヌが問うのである。何が、と。

そうか、そうだったのか。

何がと問うたのはヴェルレーヌだったのかもしれぬ。

そういう意味で、ヴェルレーヌはランボーの詩がふたりの共作だったと思いたかったのかもしれない。それは脚本家の夢想である。

だが私はヴェルレーヌが何がと問うそこに、胸を熱くした。

その問いに永遠がと答えるランボー。

ランボーが永遠に青春のシンボルである、それはその証しなのだ。

映画はどろどろとした、醜い真実も暴き出していた。

それでも、ラストは永遠に青春であるランボーを捉えたのである。

それが感動だった。切なかった。胸がしめつけられる、ラストであった。

当然ではあるのだが英語スピーキングが少し残念だった。

ランボオの手紙へ

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