真珠の耳飾りの少女 A film by Peter Weber 監督 ピーター・ウェーバー 主演 コリン・ファース 04/9/14 |
今や、フェルメールの肖像画「真珠の耳飾りの少女」は現代のイコンと言えるくらいに圧倒的な知名度と、人気を獲得している。
いったい、いつ頃から、こんなにフェルメールは人気が出て来たのだろう。
些か異常ともいえるほどの人気だ。この人気は、決して日本だけではなく、世界的なもののようだ。
映画「真珠の耳飾りの少女」には原作小説があり、そのような小説が書かれ、ベストセラーになり、そしてそれがこうして映画化さえされているのだから、ほとんど熱狂的とも言えるフェルメール・ブームが世界各国で起こっているようである。
おそらく、こんにちのフェルメール人気は、1996年にオランダのマウリツホイス美術館で開催された大規模なフェルメールの回顧展に、世界中から集められた20点以上のフェルメールの絵が一堂に会した、この展覧会以降ではないだろうか。
フェルメールの現存する作品は全部で30数点とされている。きわめて制作数の少ない画家だった。その少ない画家の作品の半分以上を一度に見ることが出来たこの展覧会は、全世界規模で大反響を呼び、日本でも評判になり、わざわざ展覧会を見るためだけに、オランダまで飛んだ人もいるくらいだ。
この展覧会で改めて注目され直し、こんにち、異常とも思えるフェルメール・ブームが続いているのではないか。
私もフェルメールは好きだ。好きな画家の一人であり、それも好きのかなり上位の方に来る画家なのだ。
しかし、この異常なまでのフェルメールへの一極集中には、ちょっと首を傾げざるをえない。
他にもすぐれた画家は沢山いて、魅力的な作品も沢山あるのに、なぜフェルメールか。
なぜ、フェルメールでなければならないのか。
それはともかく、この映画についてちょっと触れると、まず、英語で喋っている(クレジットも英語表記)ことに、はじめかなり違和感を持つ。
これはイギリス映画なのだそうだ。確かに英語で喋ってはいるがアメリカ映画ほど通俗的ではない。それでもヨーロッパ的ムードは醸成されているので、ヨーロッパ芸術を理解することの出来る、イギリスのほかにはないだろうと、ようやく気づく。
ストーリーは明確で、起承転結がはっきりしており、エンターテインメント性も持ち合わせている。
全体に破綻がなく、盛り上がりも計算されていて、物語映画としては良く出来ている方だろう。
画家をテーマとした映画はこれまでもいろいろ作られて来た。
デレク・ジャーマンの「カラヴァッジオ」、ヨス・ステリングの「レンブラント」、いずれも画家の名前をタイトルに冠している。
けれどもこれらは、分かり良い映画だったかと言うと必ずしもそうではなく、かなり観念的であった。
「カラヴァッジオ」は、デレク・ジャーマンにしては明解な方だと思うが、何よりも映像のあまりの美しさに息を飲んだ。
バロック時代の光と闇を、映画のカメラで忠実に再現してゆく。けれどもそれはバロック絵画の再現というよりも、ほとんどバロックの創造であった。
映画でバロックを創造する。
映画のカメラの限界に挑戦するかと思えるほどの、美の追求だった。
のちビデオが発売されたが、スクリーンのあの陶酔的な美は、フォロー出来ていなかった。「レンブラント」という映画は、レンブラントという画家自体がドラマチックな生涯を送った人だから、どのようにでもドラマチックな映画に出来たと思うのだけれども、これはオランダ映画で、アメリカ映画のようなエンタテインメント性はない。つまり、盛り上がりの乏しい、平板な出来になっていたのが惜しまれる。
どちらの映画も画家の描いた絵をスクリーンで再現しているのが、見どころのひとつだった。
「カラヴァッジオ」は、規制があり、全裸の少年を画面上に出すことは出来なかったことで、着衣の天使像にしたが、それが逆にいっそう、カラヴァッジオの過激さを表現していた。
「レンブラント」では、あの「夜警」を描くため、絵とまったく同じ扮装をした人々が、ポーズをとるために、扮装のままぞろぞろと歩いてゆく。
絵が描かれる直前、その直後、それを動く映像で表現するところに、映画の面白さがあった。
おそらく、商業映画は、このように流動的な表現をすることで、「映画として、絵を描く」ことに、ひとつの活路を見出したのではないだろうか。
それの最初期のものが、ピーター・グリナウェイであり、デレク・ジャーマンであり、「レンブラント」であった。
そのルーツを私は、ルキノ・ヴィスコンティに辿ることが出来ると思う。*「ルードウィヒ」で、ワグナーがコジマのために自宅にオーケストラを呼んで演奏させる場面など。
それはともかく、映画「真珠の耳飾りの少女」は、純然たるフィクションで、あの有名な肖像画のモデルと画家フェルメール自身の間にロマンスがあったという、物語を創設している。
そうではあっても、映画の目的は、「真珠の耳飾りの少女」が、アトリエで描かれる前後、少女をあらゆる角度で映画的に捉え、映画的に解体し、映画的に説明することにあったのだろう。
その瞬間に、描かれた絵とは違う角度でストップモーションになり、ズーミングされる映像に、フェルメールへの、あけっぴろげなまでのオマージュが見て取れる。
おそらくは時代考証を念入りにした結果であろう、フェルメールのアトリエも、忠実に、そしてファンを納得させ喜ばせるに十分なプロダクション・デザインがされている。
アトリエの窓を開けることによって、光が微妙に変化するあたり、よく考えられてある。小説よりも、映画の方が、より具体的にフェルメールを追体験出来るのは、当然といえば当然のことであろう。
少女に、真珠のピアスをさせることに、性的な意味を暗喩させているが、そのころの風習は、ピアスだったのだろうか。画題でわざわざイヤリングとしているのに、不自然さを感じた。
そのころの風俗に詳しくないので、間違った指摘かもしれない。少女が、アトリエにおいてある椅子を移動させ、キャンバスの外に駆逐するのを暗にほのめかす場面があるが、不審だった。
少女がアトリエに出入りしているうち、絵に詳しくなり、才能を発揮し出すと言いたかったのだろうが、非現実的だ。少女の扱いには、違和感が残った。
というよりも、これは小説の映画化で、映画もこの少女を主人公としているからなのだろう。
けれども、映画を見ながらも、見終わってからも違和感が残るのは、この著名な肖像自体が、トローネー、つまり特定の人物ではなく、架空の人物像として描かれたことを既に私たちが知っているからだけではなく、この肖像画には、いかなる説明も、いかなるストーリーも不用だ、と、こちらが暗に、頭のどこかに、すでにそう思い込んでいるからではないか。
「真珠の耳飾りの少女」が描かれた時、モデルの少女は、画家との許されざる恋に胸を焦がし、痛め、深く懊悩していたと映画は描くが、けれどもそれにどうしてもリアリティが感じられないことに、私たちは気づいてしまう。
なぜなら、当のその肖像の、少女の顔は晴れやかで愛らしく、何の邪気もなくふと画家の方を振り向いているのであり、それが決して懊悩や、苦悩の表情ではないことを、私たちはとうに知っているからだ。
だから即座に違う、と思ってしまう。そうなると映画の存在自体が、無となってしまうわけなのだが。
それが逆に、フェルメール信者の、異常なまでの信仰を炙り出しているようだ。