Movie Maniacs

Another Country
アナザーカントリー

07/5/15

1983 イギリス

監督 マレク・カニエフスカ

主演 ルパート・エヴェレット コリン・ファース

 

私の記憶する限り、世界で初めてビジュアルな同性愛をウリにし、女性の間(オタ&やおい)でヒットしたという、記念すべき映画。
「一生女は愛さない」という扇情的なキャッチコピーが、ポスターに堂々と印刷されていた。

英国の上流階級の正統トラッド・ファッションも話題を呼び、それを完璧に着こなした主役ルパート・エヴェレットの小顔、広い肩幅の、若き日のアンソニー・パーキンスを思わせるモデル風体形も評判を呼んだ。

私自身はルパート・エヴェレットは全然好みのタイプではないので、何一つ興味が抱けなかった(のちエヴェレットは本当にゲイだとカミングアウトした模様)。

 

現実にあった20世紀初頭のスパイ事件がもとになっているようで、それを戯曲にした演劇を映画化したもので、原作戯曲とは多少の違いがある模様。

どちらも舞台になっているのは英国の全寮制男子学校であるパブリック・スクール。

ここは、エリートを育てるためのエリート学校で、パブリック・スクールを卒業した学生はイギリスの第一線で活躍する政治家や外交官などになる(と思う)。
英国の、上流階級の青年の行く学校である。

主人公ガイ・ベネットは、そのパブリックスクールの学生の中でも成績優秀で、次期寮長(確かそんなポストだったと思う)を目指している。寮長になれば、卒業すると将来外交官(?)になることがほぼ約束されるからだ。

随分前の映画なので、主人公が何のポストを目指していたのかが、具体的に思い出せない。たぶんそうだったろうという、いい加減な記憶ですので済みません。

ただひとつ彼には弱点があり、それは同性愛者であるということだった。

年下の美少年に懸想し、ラブレターを渡し、相手と首尾よくデートに成功。逢い引きを重ねる仲になる。

ただ当時、イギリスでは同性愛は表向き厳禁であった。

法律で認められていなかったかどうかは忘れたが(オスカー・ワイルドの時代は罪だった)、パブリック・スクールでは、公には禁じられた行為だった。

現に映画の冒頭で寮の生徒同士の逢い引きが見つかり、それを周囲に知られた生徒が首を吊って自殺するシーンが出て来る。
この出来事が、ストーリーの伏線になっている。

 

主人公、ガイと対立する学生たちが(その一人が確か寮長のポストを狙っている)ガイを快く思わず、彼を罠に嵌める。

学生同士の勢力争いに絡んで、対立する相手が主人公ガイが同性愛であることをばらし、寮長になれないようにしてしまう。(この辺記憶が曖昧)

将来の夢を断たれたガイは絶望し、共産主義に傾倒、英国の機密をロシアに売るスパイになってしまう。

というお話だったと思う。

 

この頃日本では「JUNE」が台頭、第1次やおいブームが起きている。

今でいうオタ、腐女子ということなのだろうが、それらの女性にこの「アナザーカントリー」が爆発的にもてはやされたのは、このようなビジュアルなゲイムービー(主人公たちは英国美形ぞろい)が、これまで全くなかったこと、とにもかくにもこれまでの映画に望んでも得られなかった、美形の男の子2人が抱き合っているという図が、てらいもなしにスクリーンに映し出されたこと、ファッションが良かったこと、「一生女は愛さない」というコピーが受けたこと、などなどの原因があるだろう。

要するに、もちろんベッドシーンなどは全くないのだが(ボートで肩を抱き合っている、というシーンがある程度)、ビジュアルが美しい、これに尽きたのではないだろうか。

美しい男たちがかっこいいトラッドスタイルでわんさと出て来る。しかも、美少年を奪い合ったり(?)するご機嫌なストーリーつき。

こうした、映画の表面的な部分が、それらに飢えていた女性たちに受けた。
JUNEを読んで、「男同士の美しい恋」を夢想するようになった世代には、願ってもなかった映画の登場だった。

ということに尽きる。

 

私も、映画の「一生女は愛さない」というコピーに吊られて見にいったクチだ。

だが、一見してすぐに駄目な映画だ、と思った。

きれいな男の子同士が抱き合っていればどんなストーリーの映画でもいいというわけではない、ということを、この映画は教えてくれた。

私にとっては、そういう意味で記念碑的な映画でもある。

どれほど男同士のラブシーンを美しく描いていようとも、ストーリーが駄目ならその映画は駄目なのだ。

 

私が引っ掛かったのは、当時の法律では同性愛が禁止されていて、ばれれば厳しい罰を課せられるという状況で、それを知りつつ、主人公が英国のトップエリートを目指している点。

当時のイギリスの法律で、同性愛が禁止されていたというのは私の思い違いかもしれないが、少なくとも、映画のパブリック・スクールでは、同性愛はご法度という設定であった。

 

主人公は、同性愛に対してそれほど罪悪感は持っておらず、年下の美少年との交友を、るんるん気分で楽しんでいる。
その上で、寮長のポストを狙い、エリートを目指す上昇指向を持つ。

つまり主人公は、自分の同性愛を、ばれずに済めばそれに越したことはないと思っていて、一生ばれずにエリートでいたいと思っている日和見的な人間である。

同性愛を、煙草のヘビースモーカーのような悪い癖、くらいにしか思っておらず、ばれさえしなければ問題はなく、ばれた時の自分の身の持ちかたを考えてすらいない。

そういう、ご都合主義的な人間であるのに、映画は彼がまるで美貌の悲劇の主人公のように扱っている。そこにどうしても違和感が残った。

 

同性愛が、自分にとってやめられない癖であるなら、英国のトップエリートを目指す、ということ自体が間違っているのではないのか。

同性愛が国で禁止されている行為であっても、それが決して罪悪ではないと思うのなら、彼はそのことに誇りを持つべきであり、自分の行為に責任を持つべきだ。

自分が同性愛者である、ということは、そこに厳しい自覚がなければ、(それを禁止されている国で)貫くことなど出来ない。なのに、主人公は、同性愛であることを隠し、こそこそと裏でそういう行為を続けながら、なおかつ表ではエリートになりたいという、とてもご都合主義で、卑怯で、卑劣な男である。

 

そういうような、非常に甘い考えの主人公に、私はどうしても共感することは出来なかったし、感情移入することも出来なかった。こんな男が「一生女を愛さない」と言ったって、何の感動もない。

主人公を、このような考えの甘い、どうしようもない人間に設定してしまったことが、この映画の敗因のすべてだと思う。

 

自分の身から出た錆で、寮長になることが出来なくなると、主人公は逆ギレしてその挙句にロシアのスパイになってしまう。

甘えるのもいい加減にしろ、と言いたくなった。

 

同性愛であることを、隠してしか生きることが出来ないのが英国の社会であるなら、その祖国を売るより、その社会を少しでも変えようと努力することが、彼のすべきことなのではないのか。

「一生女を愛さない」と、同性愛者であることをカミングアウトするのなら、エリートになるという道はみずから捨てるべきだった。

それが出来ないなら、同性愛者であることを止めるべきだ。

その勇気もないくせに、エリートにだけはなりたい、そういう自分に都合のいい、甘い未来を描いている。

だから、この主人公が許せなかった。

 

同性愛者は、社会から蔑まれ、嫌われる。

主人公は、単にこのことを恐れていただけだ。

同性愛を拒絶する社会に立ち向かう勇気すらない。同性愛者は、いずれこの社会の巨大な壁にぶつかる日が来る。そうして、その偏見と差別に立ち向かわなければならない。

この映画の主人公はその勇気のない、とんだていたらくなのだ。

 

誰しもこういう主人公のような境遇で、勇気を出せる者は少ないだろう。

それであるなら、映画は、そういう卑怯で情けないさまも人間の姿であるということを描くべきであり、少なくとも主人公が悲劇のヒーローであり、英国社会の犠牲者であるかのような描写は、適切ではない。

 

この映画は同性愛を題材にしながら、そのことの問題には少しも触れてはいない。

ビジュアルが美しいだけの(そのことにも私としては異議があるが)、思想も何もない映画であり、もちろん同性愛映画に思想など必要がないのだが、この映画はいっけん、そうであるかのような体裁を取っているから余計始末が悪いのだ。

同性愛者と社会の対立を正面から取り上げたものとしては、我々は「モーリス」(88)まで待たなくてはならない。そしてそれはビジュアルとしてもずっと優れていた。

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