ルキノ・ヴィスコンティ2007
Around Visconti Ludwig
2006/11 07/5/15
これは2006年11月にNHK BSでヴィスコンティ特集の放送があった時の文章に加筆訂正したものです。
1
NHK BSでルキノ・ヴィスコンティ特集をやるようで…、その番宣があり、お花の先生、仮屋崎省吾が「ルードウィヒ」を熱く語っていた。
うおおう…。ヴィスコンティの映画は3時間4時間が当たり前。録画しなければ。DVDに残せるチャンスだし。
「ルードウィヒ」はDVDになっているのだろうか。未だになっていないのではないだろうか。
仮屋崎センセは「ルードウィヒ」を「ルードヴィヒ」と発音するくらい、分厚い思い入れがあるようだ。
だから、彼がこの映画について語ったのに文句はない。とても適当な人に語ってもらったと思う。だけど、センセが「本物!ゴージャス!4時間目が離せない!」と、興奮していたにも関わらず、この映画は実はとても退屈な映画だ。
私も「ルードウィヒ」が大好きで、今まで見た映画の中で一番好きであり、私にとっての永遠不変のベストワンで、ワン・アンド・オンリーの映画だと思っている。
仮屋崎センセに負けるとも劣らない思い入れを持っていると自負している。しかしにも関わらず退屈であることは事実だ。
初めに映画館で見た時はショックを受け、見終えたあと映画館(祇園会館)をふらふらと出て、町をふらふらと上の空で歩いたことを、今でもはっきりと覚えている。
大変なものを見てしまった、と、そして、当分、この世界から抜け出られないだろう、と。
その予測通り私は元の生活に戻るのにとても苦労した。
もうあの世界に入り込んでしまいたい、浸っていたい、いつまでもずっと、引きずったままでいたい。もう帰りたくない、戻りたくない…と。
私が最初に見たのは3時間バージョンで、その後いろいろあり現在流通しているのは4時間版と思う。
3時間版は、場面が変わるたびにおおっ!と感嘆し、目を見開き、文字通りよそ見している暇もなかった。
しかし、ヴィスコンティに興味のない人にしてみればどこが面白いのか?と思うのは事実だろう。
この映画は、最低でもルードウィヒの建てた城の名前を全部知っていて、ワグナーのオペラの名前を、見たことはなくともソラで言えるくらいでないと楽しめないように思う。
そしてワグナーの作った曲をいくつか知っていなければ、さっぱり分からないだろう。仮屋崎さんは、ヘレンキムゼーがベルサイユ宮の真似っこであることも知っていたし、ルードウィヒがルイ太陽王にあこがれていたことも知っていたから、あのヘレンキムゼー城が出て来た場面を楽しめたのだが、そうでなければあの場面の何が面白いのか分からない。
私が最初見た時も、それを知らなかった。だから、あの場面でエリザベートが高笑いする意味が、まるで分からなかったのだ。
映画は何も説明していない。
日本の過剰に親切なテレビ番組みたいにいちいちテロップが出たりしない。
見ている観客が、この程度のことは知っているはずだから、ということが前提になっている。
私は必死になって勉強し、あの映画に出て来たことのすべてを理解しようと、いろんな資料を読んだ。そうして、少しずつ理解が出来るようになったのだ。
それでも最初、何も知らなくても激しい感動とショックを受けたことは確かだったのだが。
「ルードウィヒ」は映画のテーマ自体がとても暗い。
ヴィスコンティの映画は、大体とても暗いのだ。
「若者のすべて」なんて真っ暗だ。救いがない。
不幸な若者がよりいっそう不幸になり、不幸のどん底になって終わる。何の救いもない。
見ていて鬱々として来る。
NHKの番宣ではアラン・ドロンだけが兄弟でキレイなんだけど…とか軽いノリで語っていたけれど、そんなに軽い映画ではない。
見たら、見ているのがいやになると思う。
現代の軽い感動やお涙頂戴が好きな人たちには絶対合わないと思う。映画を、泣ける、というだけが評価の基準である現代人には想像のつかない作品世界だろう。
それくらい、ヴィスコンティの映画は厳しい。つらい。
生きることはとてもしんどくて、苦しい。人はあがきながら懸命に生きるが、それでもその頑張りが報われないこともある。
そういうことを、ヴィスコンティの映画で学んだ。
どんなに頑張っても何も報われない。そういう残酷な現実をヴィスコンティは映画で暴いた。
それでも、理想を目指して生きることが人間の性であり業であり、そこにこそ生きる意味があると。
ゴージャス!本物のセレブ!とほけほけした心で見ても、ヴィスコンティの映画はつまらないだろう。
2
BS放送のあとで
「ルードウィヒ」を見た。
と言ってもお風呂に入ったり、よそ見したり、用事をしながらだからちゃんと見たわけではないけど。
4時間、真面目に見た人はチャレンジャーだ。
私は映画館でちゃんと見てはいる。3時間版と4時間版を複数回見ている。
ヴィスコンティ・フリークだから映画館で長時間を見るのに苦痛はない。
4時間版を特別上映会でホールで見終わった時に、若い男女数人の観客とすれ違い、男性がつまらなくて寝てしまった、と言っているのを聞いたことがある。
「ベニスに死す」も、気持ち良くて寝てしまったという人を、複数知っている。
だからヴィスコンティは、一般人には受けが悪いのだなと、私の中で何となくトラウマがある。
ヴィスコンティ映画は、多分オカマに受けるのだと思う。
ヴィスコンティ本人が同性愛者ということもあるが。
仮屋崎センセにも受けていたし。いや、私自身、自分はオカマではないかと時々思う。
私の感覚がオカマだと思うのだ。私がもし生まれ変ったとしたら、絶対オカマになると思う。
そんなわけで、ヴィスコンティ映画はわりと特殊な感性を持つ一部の人にだけ熱狂的に指示される映画、と言えるのだろう。
「ルードウィヒ」一番の問題は、どのバージョンもイタリア語吹替え版だということだ。
オリジナルは英語である。英語で撮影され、俳優は英語を喋っている。
シナリオは多分イタリア語で書かれたのを英語に翻訳して使われたと思う。
ヴィスコンティ映画は国際俳優(英国、ドイツ、イタリア、フランス等)を使うので、共通語の英語を使っているのだ。
「ルードウィヒ」は72年に作られ、翌年くらいに欧米で公開されたと思うが、日本ではその時輸入されなかった。
製作に莫大なお金がかかり、そのせいで輸入買い付け額が高くなり、けれどもヴィスコンティ映画は買い付け額に見合うほどヒットする訳ではない。
それで公開が見合わされた。
日本で最初に公開されたのは1981年だったと思う(独立系、エキプドシネマ)。
その時、会社はイタリアで公開された3時間バージョンをイタリアから輸入した。
それは、イタリアで公開されたイタリア版だったので、イタリア語に吹き替えられていた(ヘルムート・バーガーの声はジャン・カルロ・ジャンニーニ)。
イタリアはヴィスコンティの母国ではあるが、だからといって、必ずしもヴィスコンティ本人が製作し、望んだとおりのバージョンだった訳ではない。
(日本の輸入会社はヴィスコンティの母国だからと思って、イタリアから買いつけたのだろうけれども)
その後、89年ころにイタリアで映画祭があり、その時に特別公開されたのが、再編集された4時間のバージョンである。
しかしこれもイタリアでの公開だったのでイタリア語に吹き替えられていた。
ついにヘルムートの本物の声を、「ルードウィヒ」では聞くことが出来なかったのだ。
では、オリジナルの英語バージョンはないのかというと、ある。
アメリカで公開された世界公開バージョンだ。
でもこれは、ワーナーの意向で2時間半に短縮された短縮版であった。
アメリカで公開する時、オリジナルが長すぎるというので、編集権を持っていたワーナーが勝手に短縮したのだ。
短縮されすぎたためか、アメリカでの評判はさんざんだった。
日本での初公開の時のタイトルは「ルードウィヒ/神々の黄昏」。
4時間版が「ルートヴィヒ」なのかもしれない。私は初公開時の時のタイトルを略して「ルードウィヒ」というのが癖になっていて…。
もちろん、どちらのバージョンのビデオも持っている。映画館でも両方何度も見ている。
ルキノ・ヴィスコンティ自身はどの長さで作ろうと思ったのだろうか。
オリジナルの脚本は4時間40分くらいの尺だったらしい。だが、撮影したフィルムは6時間とも8時間とも言われている。
それを短縮して4時間40分としたが、映画会社が長すぎるとして納得せず4時間にした(正確ではないので真相はどうだか?)。
イタリアで公開する時は、それをさらに縮めてヴィスコンティ自身の編集で3時間にしたと聞く。
ともあれ、ヴィスコンティ作品の中でもとびきり長いので編集に苦労したようだ。
確かに「ルードウィヒ」は冗長な映画だ。そして、明らかに退屈なのだ。
だけども、だらだらと長い、ということが必然である映画もある。
だらだらとしていることに意味があるのだ。
「ルードウィヒ」が2時間半の映画であったら、私はこんなに夢中にはならなかったと思う。
だらだらと退屈な長い時間をかけてしか描けない世界もある。
ヴィスコンティは恐らく、この映画に24時間くらいかけたかったのではないだろうかと思ったりする。
おそらく、NHK大河ドラマのように1年かけてじっくり描く、のがヴィスコンティの最も望む形だったかも、と。
ビデオ、DVD10枚組「ルードウィヒ」とか。
ああ、そんな映画だったらどんなに嬉しいだろう!1日中でも見続けていられるのだから…
と、ヴィスコンティ・オタ爆発の私であった。