Movie Maniacs

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A TIM BURTON FILM
SLEEPY HOLLOW

スリーピーホロウ
by ティム・バートン

00/3/17

註)

何の気なしに「スリーピーホロー」と表記していたら、今見たら映画会社は「スリーピホロウ」と書いている。表記には神経質で、厳密な私なので、さっそく映画会社にならい、「スリーピーホロウ」とさせていただく。各項目で直っていなかったら、ごめんよ。

「スリーピーホロウ」という名は、米文学をやっていた人なら、どこかで名前を聞いたことがあるかもしれない。

ワシントン・アーヴィングという人の書いたゴシック・ホラーで、アメリカ人には国民的に膾炙している物語だという。

これをティム・バートンが監督したのだが、私は「騎士」とか、「戦士」という字句に、極端に弱いらしいのだ。
「騎士」と聞いただけで、脳髄がぴくっと反応し、たとえ、それが首なし騎士だったとしても、馬に乗った騎士が野を駆けていくスチール写真を見たら、もう、それだけで見たい!と思ってしまう。

私は「本能的に」騎士が好きみたいなのだ。

Irving

さて、私はアーヴィングの原作は読んでいないのだが、映画で見た限り、また映画が原作の小説に忠実な脚色をしてあると信じれば、この物語の謎の提示、謎解きは、大変見事なプロットで、見事な解決になっていると言える。

魔術が扱われているが、それさえ合理的な解決を導く手立てになっており、見ていて胸がすく思いがした。

知的な興奮を誘う物語で、アーヴィングがよく読まれている、ということが非常に納得できる。

映画でも、謎解きは大きな魅力になっており、特にクモを追いかけるシチュエーションから「悪魔の目」を発見する件りは非常にスリリングで、そのだんどりの見事さといい、映画の醍醐味を味わった感がする。

映画の醍醐味という点でさらに付け加えるとすれば、騎士が首を斬るという残酷極まりない描写が、素晴らしいSFXによって、あざとさを感じさせず、むしろ芸術的とさえ言えるような、自然な趣きを湛えていた、ということも言っておくべきだろう。

Style of Tim Burton

この映画の監督ティム・バートンは実は私は嫌いだった。

「バットマン」はまだしも、「バットマン・リターンズ」を見た時は、これは、フリークスを扱った映画である、というふれこみがあったのならともかく、単純にバットマンが活躍する映画を見たい人間には、どうしても納得のいかない、いくはずもない奇形的な映画であることに、拒絶反応さえ起きたのだ。

 

しかしこの「リターンズ」は、映画自体はヒットしなかったが、その趣味的世界の構築によって、(キャットウーマンがボンデージ衣裳であるとか)日本のオタクと呼ばれる男たちにいたく支持され、バートンはいちやくオタクのアイドルになった。

主人公のバットマン=ブルース・ウェインが大金持ちであるにも関わらず、趣味にこだわるオタクだという性格設定に、日本のオタクどもが感動したらしい。

ティム・バートンは「バットマン」シリーズのほか、「ビートルジュース」、「シザーハンズ」、「エド・ウッド」、「マーズアタック」、プロデュース作品に「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」「ジャイアント・ピーチ」の人形アニメ映画などあり、その作品群には一本芯がとおっていることを、私も認めることにヤブサカではない。

このうち見たのは「エド・ウッド」だけだが、才能豊かな演出家であるということは、そのタイトルからも見て取れよう。
だから私はバートン自体が嫌いという訳ではないのだ。

ただ、バートンを自分の分身か自分の身内、或いは自分の見方であるかのように思い込んでいるらしい日本のオタクたちには非常に見苦しいものを感じる。

それが、私がバートンを手放しで賞賛しかねる原因なのである。

still, Burton

バートンの映画には、確かにオタクやマニアの心をくすぐるディテールがふんだんに盛り込まれている。

それがオタクたちが勘違いする原因にもなっているのだが、「エド・ウッド」が典型であるように、バートンは、誰も知らない(だがマニアには有名な)題材を、堂々とハリウッドの資本で、堂々たる語り口の作品に仕上げ、世人を納得させてしまう、というウルトラC技を披露してきた。

そのことは、バートン自身がオタクである、という以前に、というか、以上に、彼がいかに商売がうまく、才能があり、単なるオタクの楽屋落ちに堕さない力量の持ち主であるかを示していることに他ならないのだが、日本のオタクたちは、バートンのくすぐりにすっかりやられ、まるで彼をオタクの救世主であるかのように持ち上げた。

はたから見ると、だからこのオタクのバートン狂いは、実にみっともない以外の何物でもないのだが、彼らにはそれがまるで分かっていないらしい。

バートンは映画をヒットさせる人気監督であり、成功報酬としていい女をゲットしたお金持ちである。
オタクたちとは身分が違うのである。

オタクのようにディテールにこだわり、喜んでいるだけなら、バートンにはなれない。
彼らは永遠に情けないオタクのままだ。

*

いくら微細なことに知識を持っていようが、誰も知らないものにこだわろうが、それが一体、生きていくために何になるというのだろう。
何の役に立つというのだろう。

オタク的な知識というのは、実生活においては何の役にも立たないものだ。

でもだからといって、実生活を捨て、オタク世界だけしか見ないで生きてゆくことは、自分の無限の可能性と、無限の未来を自ら捨ててしまうことだ。
実社会と、戦わずして負けてしまうことだ。

バートンのように、社会と果敢に関わり、自らの可能性をその中で戦い取ってゆく、そうした果敢さが、オタクには欠けている。

*

オタクである以前に、自分が何をやりたいか、そして何をやることができるか。そして、自分が望んだことを、やることが出来る技量を持っているか。
やるだけの勇気、根性、努力。それらを持っているか。

バートンは持っていたのである。

それが、バートンとオタクを分ける最大の分岐点だ。

back to Sleepy Hollow

「スリーピーホロウ」はゴシック・ホラーという振れ込みである。

ゴシック・ホラーは昨今流行らないスタイルのホラーだ。
血しぶきが横行し、単純な恐がらせの演出のホラーが溢れている今、オールドスタイルで、雰囲気を楽しみ、想像力をかきたてる濃厚な物語世界は、完全に過去のものになった。

それをティム・バートンは復活させたのである。

ゴシック・ホラーは雰囲気である。
私の個人的な意見では、「コナン・ザ・グレート」などのヒロイック・ファンタジーと同じように、雰囲気、アトモスフィアがすべて、の世界である。

だからゴシック・ホラーには雰囲気作りが最も重要である。

conclusion

ティム・バートンはこの「スリーピーホロウ」の世界をハマー映画のホラーだとみなし、英国で撮影を行った。

雰囲気作りのためである。
卓見である。
バートンはやはり分かっている、としか言いようがない。
(今回ティム・バートンを誉め過ぎている私)

ただ、本当のハマー映画と違う点は、バートンのこの映画のほうが数段金も、手間もかかっており、どうどうたる大作になっているということだ。

ハマー・ホラーはチープで、あざとく、一般には馬鹿にされている、というのが当時(今も)の認識である。

だが、この映画は十分に金をかけ、丁寧に作ったため、ハマーを目指しつつ、もっと風格のあるハリウッド大作になった。

1799年、世紀の変わり目、時代がかったコスチュームプレイとしても楽しめるドレスやプロダクション・デザイン。
これらのバックデザインをきちんとしているから、時代劇として、雰囲気がよく出ているのである。

この映画も、確かに血糊や、残酷場面や、ショッキングな場面があるにはある。
ハマーが目指した、大衆受けするあざとさを継承しようという態度もちゃんと伺える。

だが、それ以上に雰囲気溢れるゴシック世界の構築により、映画は思いがけず、ハマーを超えて、ひとつの物語的世界の雰囲気を獲得したように思えるのだ…。

ま、誉め過ぎの感あり…だけど、たまにはいいか。

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