Movie Maniacs

サテリコン

Fellini Satylicon

1969年 イタリア映画

監督 フェデリコ・フェリーニ

主演 マーティン・ポター ハイラム・ケラー

14/1/24

 

1960年代後半から70年代にかけて、全世界中で若者の間に学生運動の気運が高まり、アメリカではヒッピーが出て来てベトナム戦争に反対するようになった。

映画もそれらの影響を受けた、「イージーライダー」をはじめとした、「いちご白書」「アリスのレストラン」などのアメリカ映画が誕生した。

ゴダールは運動にのめり込み、商業映画をやめてしまい、「東風」など、学生よりの前衛映画に傾倒して行った。またミケランジェロ・アントニオーニも「砂丘」という映画を作ったりと、映画の世界でもヒッピーを描くことは世界的に広まった。

この、フェリーニの「サテリコン」もそれらと無関係ではなく、主人公の若者は明らかにヒッピー族を連想させるものだし、出演者も無名のヒッピーたちを選んだと聞く。

「サテリコン」の筋はあってないようなもので、色々なエピソードが順繰りに出て来るのだが、そのフェリーニの世界を行き来する主人公たちの放浪には、その頃のなつかしのヒッピーの面影が色濃く反映されているのだ。

だから映画は当時の世相を抜きには語れないのだが、さすがにフェリーニは「時代と寝た」だけではなく、今でも色褪せない圧倒的な画面作りで強烈な印象を残す、そんな映画を作った。

「サテリコン」は、今ではヒッピーの放浪というよりは、ローマ帝国のデカダンスを壮大な規模で描いた一大絵巻と言えると思う。

フェリーニはチネチッタの大きな映画スタジオを存分に使ってローマ帝国の巨大なセットを作り、イタリアのルーツとなるローマの世界を存分に描いたのである。

 

オープニングは、半裸の若者が灰色の壁を背景にブツブツと愚痴を呟くシーンから始まる。

撮影はフェリーニの相棒とも言えるジュゼッペ・ロトゥンノ、このカメラの陰影がまず強烈に視線に飛び込んで来る。

ロトゥンノの仕事は相変わらず素晴らしい。このローマ帝国の退廃の映像に相応しい、凄いカメラである。

このカメラに捉えられた半裸の若者の姿だけで、この映画がすでにただならぬ雰囲気を持っていることを、オープニングのたったワンシーンから見て取れるのだ。

若者は、エンコルピオという名前で、友人のアシルトに自分の愛していた美少年、ジトンが奪い去られたことを怒っている。

同性愛であるが、この映画ではそんなことは大したセンセーショナルなことではない。

この後、いろんな性愛が登場し、エロチシズムとグロテスクの饗宴が続くことになるのだ。

エンコルピオはアシルトを探し出したが、アシルトはジトンを喜劇役者に売り飛ばしていた。

ジトンは舞台でエロスの役をしていたが、エンコルピオは彼を奪い返し、やっと二人になれたと思ったのも束の間、アシルトが再び現れ、ジトンは何とアシルトの方を選んだのだった。

 

映画は、それからも小さいエピソードを積み重ねて行って、筋らしい筋はない。

作者はペトロニウスというローマ時代の作家で、「サテュリコン」という断片だけが現在まで残っており、その小説の全貌は分からないのだという。

どこまでペトロニウスの原作に寄ったのか分からないが、フェリーニは共同脚本で、いつも彼と担当しているベルナルド・ザッポーニと自ら脚本を手がけている。

彼は様々なエピソードを描いて行って、筋と筋の間にこれと言った説明もなく、ただ描写を羅列してゆく。

我々は、そのローマ時代の雰囲気、退廃の描写、異様な気配に圧倒されるばかりとなる。

映画を見るというより、ローマ時代のその世界へ迷い込んだような、その退廃に踏み込んでしまったような、見るというよりは体験をする。

まさしく、これは体験する映画だろう。

 

ローマ時代の演劇や風俗、宿、宗教、それらの描写されているものが正確なのものなのかどうなのかまったく分からない。まったくフェリーニの描くワンダーランドの世界であって、そのダイナミックさに訳も分からずふり回される。

私は見ていないが、フェリーニがこうした作風を示し始めたのは「甘い生活」とか「8・1/2」あたりからだろう。

「サテリコン」のあと、「フェリーニのローマ」や「女の都」「カサノバ」などを見たが、私はフェリーニのあまり良い観客ではないので、確としたことは言えないが、いずれも勢力的なフェリーニの仕事ぶりに圧倒されるのは同じだ。

 

フェリーニはエロチシズムも多用しているが、それはエロチシズムと言うより猥雑と言った方が相応しいかもしれないものだ。あまりお上品ではないのだ。

この「サテリコン」でも女が大股を開く場面が再三出て来る。

 

エンコルピオが性的不能に陥って、魔女の助けを求める場面で、巨大なデブ女が仰向けにどっしりと寝転がり、その上にエンコルピオがすがりつくというシーンがある。フェリーニは巨大デブ女が好きなのだ。

その大らかさというか、あけすけさには呆れるほどだ。

一時間ごとに男を与えないと発狂してしまうという女がいて、両手を縄で縛られていて、男が自分の上に乗るのを待っている。エンコルピオを見ると舌なめずりして嬉しげに誘うという浅ましい場面もある。

また、軍船を指揮する将軍リーカが性的倒錯者で、自分が花嫁となり、エンコルピオと結婚式を上げる場面などもある。

この映画では、何度も言うように性的倒錯は大したフェノメノンではない。エピソードのひとつとして出て来るに過ぎない。

フェリーニにとっては同性愛や性的倒錯というものも、ローマ帝国時代を象徴する大事なアイテムのひとつなのだろう。

 

私が気に入っているのは「トリマルキオの饗宴」と「ヘルマフロディテの神殿」のエピソードで、「トリマルキオの饗宴」では、宴会に招待された客が寝そべりながら食べまくっていて、その宴会場のカメラがロトゥンノらしい素晴らしい奥行きの、こってりした画風を作り上げている点。

また、「ヘルマフロディテ」というのは両性具有のことで、金色に輝くその姿を皆が信仰していて、その神殿には不具や片輪、奇形の人々がぞろぞろと列をなしてやって来る。

フェリーニは奇形に対してもまったく無防備に描写していて、鮮烈な記憶に残っている(ビデオなどでは削除されているかもしれない)。

最後には、気味の悪いことに、人肉食にまで描写が及んでいるので強烈である。

 

こんな映画を思春期に見たことは、何だかトラウマになっていそうだが、この勢力的な、圧倒的な、もはや映画というより見世物、グロテスクで悪魔的で、デカダンで、それでいてスケールの大きな人間を描いた一大絵巻は、未だに忘れることが出来ない有無を言わせぬ力を持っている。

大好きだ、というには躊躇いもあるが、一つの世界を描ききっていることには好きだと言ってもいいかと思う。

 

Best10 | TOP | HOME

SEO [PR] ギフト 音楽配信 コンサート情報 わけあり商品 無料レンタルサーバー
inserted by FC2 system