Movie Maniacs

ルードウィヒ 神々の黄昏

1972年

監督 ルキノ・ヴィスコンティ

主演 ヘルムート・バーガー ロミー・シュナイダー トレバー・ハワード

14/1/8

ドイツ、ババリア19世紀。

ルードウィヒ2世は今は観光地として有名なノイシュバンシュタイン城を立てた王として知られる。

その王の映画をヴィスコンティ演出で、ヘルムート・バーガー主演で見られる、何という奇跡、幸運。

ノイシュバンシュタイン城をヴィスコンティがどのように撮っているのか、それも興味のひとつだった。

日本公開は映画の完成から8年も経っていたが、それでも幸運は遅すぎてはいなかった。

 

ルードウィヒは18歳で即位した。

その、即位式の前日の夜、ルードウィヒの告解のシーンから映画は始まる。

その輝くばかりの美貌、王になる喜びと決意で溢れた若い、華やいだ姿。

即位式はこれぞヴィスコンティという、様式美と豪華さで満たされ、ヨーロッパの、本物の歴史の深さにまず圧倒される。

だが映画は間もなくルードウィヒと言う王の、意志の弱さ、心の空虚さを暴き出してゆく。

ひとり王を追い、追い詰め、凝視し尽くす。

オーストリア后妃エリザベートへの思慕。

音楽家リヒャルト・ワグナーへの度を越した傾倒。

城の建築への執念。

弟、オットーの不幸な心の病。弟の狂気は、自分もそうなるのではないかという不安を王にもたらす。

 

王は政治や世界情勢にはまったく興味がなく、ただひたすら自分の好きなものに囲まれることを好み、自分の世界に溺れてゆく。

今で言えば贅沢なオタク、とひとことで済むのだが、王は自分の好きな世界を構築するために湯水のごとくに国費を乱費する。

そして、どれだけ自分の好きな世界に没頭しても満たされることがない。

王という、最高の身分にいながらそれに満たされず、今いる自分に満たされない。

彼には秘密があった。それは、男性に性的興味を持ってしまうことだった。

王は心に孤独を養う。

現実を見ず、ひたすら逃避して、逃げて、自分の世界に閉じこもる。

やがて若い日のあの美貌は影を潜め、歯を傷め黒く濁らせ、顔はむくみ、醜く衰えてゆく。

ヴィスコンティはこの王の退廃を見つめて容赦がない。

凝視し尽くして彼を追い詰めてゆく。

 

私は、澁澤龍彦の書を読んだ時に、ルードウィヒが退廃して行ったのはワグナーのせいだという説を信じていた。

だが、ヴィスコンティはそうはとらなかった。

王の退廃は誰のせいでもない。彼自身のせいだ。

彼自身の心の弱さ、彼自身の性格の脆弱さの責任なのだと。

その視線の厳しさにヴィスコンティの力量を、今更ながら私は知った。

その厳しさ、むごさ。

 

王は言う。

「唯物論の本はよく読んだ。だがあれには満足出来ない。人間は動物ではないのだから」

この場面、このセリフに私は卒然と悟った。

王と言えども、苦しみや孤独から逃れられないのだと。

私たちと同じ苦しみ、同じ孤独から。

王と言えども彼は幸福ではあり得ず、今いる自己のあり方に満足出来ないのだ。

何でも手に入り、自由に好きなことを出来るはずの王が。

王と言う立場が必ずしも幸福を約束することにはならないのだ。

 

国家は、この王を狂気と扱う。

さる城に、王を見張る医者と王を閉じ込めてしまう。

そこは監視つきの牢獄かのようである。

王はある雨の夜、医者と共に散歩に出かける。そして行方不明になった。

発見された時、既に王の息はなかった。

雨は止まなかった。王の上には永遠に-

 

アルマンド・ナンヌッツィの見事なカメラが現地の建物を撮影している。

ノイシュバンシュタイン城、リンダーホフ城、ヘレンキムゼー、すべて本物を撮影している。

そしてその見事な撮影が、当時の王族の居城、衣装、立ち居振舞いを再現する。衣装担当はピエロ・トージ。それだけで文化財級だ。

それは見事で、室内の装飾一つにまでも、女優のアクセサリーひとつに至るまでもゆるがせにすることなく、見事に統率されている。

このリアリズム、まさにヴィスコンティの世界ならではであろう。

女優が、王族の衣装をまとい、城の前をこつこつと歩く。

歩く姿を延々と撮る。

そんな場面が何度も出て来る。

退屈だろうか。

だが、それがヴィスコンティのリアリズム。恍惚たる場面だ。

映画はそんな恍惚が続く。

息を飲むような恍惚の場面の連続。

ワグナーの未発表のピアノ曲、「夕べの歌」、シューマンの「子供の情景」…、音楽も選び抜かれている。

 

映画は、しかしそれでもルードウィヒの没落をひたすら追って、ただそれだけに集約する。

この厳しさ、哀れ。残酷。

「ベニスに死す」で黒い汗をアシェンバッハに流させた、その残酷さよりももっと厳しい残酷さだ。

それでも見ていて耐えがたい思いはない。

それが人間、それが生きると言うことだからだ。

生きると言うことは自分なりの満足を求め、より良い自分を探すことである。

どれだけむごくても、そこにヴィスコンティの真の主張がある。

そこにヴィスコンティの救いを見る。

不器用にしか生きられなかった王の、雨に濡れそぼった死に顔がストップモーションになった瞬間のラストシーン、それは生涯忘れられない名シーンとして記憶に永遠に残る。

 

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