Movie Maniacs

If... もしも…

07/5/15

1969年 イギリス

監督 リンゼイ・アンダースン

主演 マルカム・マクダウェル

 

世界的に学生運動が流行っていた時には、それに影響を受けた映画がいくつも作られた。

ゴダールの映画もそうだし、「いちご白書」も学生運動を描いた映画だった。ヴィスコンティの「家族の肖像」にも、学生運動くずれのキャラクターが登場している。

この「Ifもしも」という映画は、世界的に広がった学生運動に対する、イギリスからの回答のような作品だと言えるだろう。

カンヌ映画祭でグランプリを得、マルカム・マクドウェルの出世作となった。マクドウェルは「時計仕掛けのオレンジ」で有名だが、この作品も代表作だ。

 

ストーリーは簡単だ。

イギリスの伝統的で、閉鎖的なパブリック・スクールが舞台。厳しい決まりが学生たちを縛っている。

そんな中で奔放な学生たち3人が、遊び仲間でつるんでいるうち、クルセイダース(十字軍)というグループを結成する。

彼らは寮を抜け出しては町に遊びに出かけたり、女の子と遊んだりする。

そのうち彼らの所業が学生を統治している寮長(彼も学生だが、寮内では教師よりも権力を持つ)に見つかり、むち打ちの刑という、お尻をきつく叩かれる刑罰を受ける。

寮や学校と次第に対立するようになったクルセイダースの仲間は、ある日、ついに実力を行使する…

 

この映画のきわだった特徴はまずパートカラーであることで、寮内の描写はすべてモノクロで、主人公たちが外へ出る時のみ、カラーになる。
だからほほモノクロで画面が占められていた。

つまり学内の規則に縛られている時はモノクロのように色のない味気ない生活、そして寮を飛び出すと、世界が途端に色づいて見える、というような対比を現わしたかったのだろう。

このアイディアは単純ではあるけれど、映画に実際に使われるのはきわめて珍しい。だから非常に印象的だった。

それだけでなく、全編がほぼドキュメンタリー・タッチで、ただ事実を淡々とカメラが追ってゆくという、フィクションのドラマにしては珍しい演出だった。

学生生活を、軍事訓練や礼拝、学校行事などというように淡々と追う。そこに主人公三人の行動が次々に挟まれてゆく。

奔放で自由な遊び仲間三人が学内で次第に浮いた存在になり、それにつれて彼らはやがて、手首を切って血判で誓い合うまでになり、遊びがだんだんと真剣になってゆく。

それを淡々と追ってゆく演出の恐さ。

 

三人のうちの一人は体操が上手く、体育館に出入りして鉄棒を練習している。

学校内で一番の美少年だと評判の金髪の少年がその日、たまたま体育館に来ていた。

美少年は、鉄棒で大車輪をしている学生に目が釘づけになる。

少年は金色の髪をかき上げながら、じっと学生を見つめ続ける。その時、映画の画面はスローモーションになる。

 

男ばかりのパブリック・スクールの寮。ここでも同性愛めいた学生同士の交流が、当然のように描写されるのである。

この美少年が髪をかき上げるシーンのスローは、比類がないほどエロティックだった。

この映画では、マクドウェルがカフェの女の子と激しい"タイガー・キス"をする場面などもあるのだが、この少年のシーンのエロティシズムにはかなわない。さすがにイギリス映画だと思う。

映画は、体操の得意な学生と美少年の交流を、これ以上具体的にはまったく描いていない。

ただ、美少年は最後に、タイガー・キスの女の子と同じようにクルセイダースに加わっている。そこから、彼らの関係を推測するのみである。

だからこそ、髪をかきあげるシーンが際立つのだ。なんという憎い演出だろうか。

 

映画は最後に戦慄的なクライマックスを迎える。

コロンバイン高校の事件などを経験した現代の我々の目には、危険なシーンに写るだろう。

けれども私には、彼らクルセイダースの叛乱は、既成のものに対する反発であるとか、体制への反逆とか、抑圧されたうっぷん晴らしであるとか、そういうことよりもむしろ、何か、どこにも出口のない閉塞感に押し潰されそうになっている者の、どうしようもないいらだち、を表わしていたような気がしてならない。

最後の武装決起に至る主人公たちの内面にさえ、映画は踏み込んでいない。ただあるがままに、事象を描いているだけだ。

そこに、この映画の秀逸さがある。

彼らを糾弾すべきなのか、それとも共感するのか。

ハードな映画ではあるのに、男子ばかりのパブリック・スクールの、その男子学生の描写にこよない色気を感じさせる所が、この映画の肝だ。

非常に稀有な作品と言うべきだろう。

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