アポロンの地獄 Edipo Re 1968年 イタリア |
監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ 出演 フランコ・チッティ シルヴァーナ・マンガーノ |
今から考えてみると、このような映画が輸入され、全国で公開されていたことが奇跡と言っても良いのではないだろうか。
今なら決して日本で公開されることなどないだろう。
イタリアのピエル・パオロ・パゾリーニ監督はスキャンダルで有名で、その凄惨な死に様でのみ、語られている監督かもしれない。いや、未だに真面目に語られることすらない監督であるような気がする。
しかし、生存当時は難解な映画を作る人として知られ、発表される度に話題になったのだ。
パゾリーニ作品の中で、艶笑3部作(「デカメロン」「カンタベリー物語」「アラビアンナイト」)の頃になると、作風が変わって一般的な映画作法を身につけたようにも思えたが、難解であり、最高作でもあるのが「アポロンの地獄」と「テオレマ」であり(私は「奇跡の丘」を見ていないので省いた)、かつて詩人・作家であった感性がダイレクトに出ている「アポロンの地獄」は、おそらく、今見ても衝撃的だと思う。
現代の、アメリカ映画を中心とする、ストーリー展開のスムーズな映画を見なれた人々には、この映画はどう映るのだろう。
おそらくは、訳が分からない、と一蹴されるのみかもしれない。
原題はEdipo Re「オイディプス王」。
つまり、有名なソフォクレスのギリシア悲劇をもとにしている。
オイディプス王は、ギリシア神話にも登場する。スフィンクスの謎を解いて、この化け物を退治する英雄として描かれている。
ソフォクレスの劇では父を殺し、母と通ずる悲劇の王として描かれ、エディプス・コンプレックスの名前のもとになったのは周知のとおり。
このオイディプス王を、パゾリーニはどのように描いたか。
それは、独創的と言うしかない。
映画の殆どは、荒野で終始する。
どのようなイマジネーションで、この物語の背景に荒野を選んだのだろうか。
どの地方のどの光景なのか。定かではない。
どの時代なのか。分からない。見当もつかない。
荒い土の地肌の上に太陽が照りつける、そこで、誰ともつかない人間がわめき、吼え、泣き、激情に身を震わせる。
私が最初に見た印象は、それだけだった。
丸裸の人間と、丸裸の荒野。それだけ。
オイディプス王といっても、ズタボロのドンゴロスのような布を巻きつけているだけ。
城といっても、泥を塗り固めたような、屋根のない、四角い仕切りだけ。
2時間弱の間、えんえんと荒野で人間が喚いたり、歩いたり、殺したり、時には誰もいなくなったり。そんな光景がひたすらえんえんと続く。
いったい、何の乞食芝居なのだろう。
それはあまりにも衝撃的な映像だった。
退屈である。あまりにも退屈である。
だが、どの場面も象徴であり、どの場面も詩であった。
どんな映画もこの映画のような映画はない。ユニークで、唯一である。
パゾリーニはまだ映画作法を知らず、下手くそで、ストーリーの展開のさせ方を知らないのだとすら思った。
巻頭からしばらくして、女が子供を産む。
子供を産む場面を窓の外から写している。女が股を開いている。
次の瞬間、産声が聞こえる。
アパートの一室だから時は現代。なぜ? 何の説明もなし。
場面が変わると女が赤ん坊に乳をやっている。女はなぜかカメラ目線。
この女(シルヴァーナ・マンガーノ)はオイディプスの母であり、赤ん坊はつまりオイディプスなのである(説明いっさいなし)。
映画の終盤で、この女をめとったオイディプスが、それが自分の母だったと知る。その重要な伏線を、女が子供に授乳している場面で表わしたのである。
パゾリーニは、マザコンで有名だった。
パゾリーニ自身に、母との近親相姦を囁かれたこともあったくらいだ。
映画を製作している現場に母が訪れ、何くれとなくパゾリーニの面倒を見ていたという。
そのパゾリーニをしての、「アポロンの地獄」だった。
女が子供に授乳する場面は、西洋の聖母子像から取られたのだという意見もあった(だからカメラ目線)。
いずれにしても、母の神性を表わしたのだろう。
その母と交わり、それを知ったオイディプスは我と我が両目を抉り、盲人となって荒野を彷徨する。永遠に。
荒野は、原罪の場である。
それと知ったとき、母上、と叫んで母をかき抱いたオイディプスの悲しさ、あわれ。
母を抱いた時のオイディプスの恍惚はいかばかりだったのか。想像は果てしなく見る側に迫って来る。パゾリーニだからこそ描くことが出来た、ぎりぎりの映像だっただろう。