デッドゾーン
The Deadzone
1983年 アメリカ映画
製作 ディノ・デ・ラウレンティス
監督 デヴィッド・クローネンバーグ
主演 クリストファー・ウォーケン ブルック・アダムス マーティン・シーン
14/1/19
有名なホラー作家、スティーブン・キングの原作を映画化したもの。
どういうわけでこうなったのか分からないが、監督を気持の悪いスプラッターを当時監督していたカナダ人のデヴィッド・クローネンバーグが担当している。
だが、この映画ではクローネンバーグ得意の気持悪いホラー描写はほとんど一切なく、主人公の哀しい心理に寄り添った、美しいと言ってさえ良いしっとりとした作品に仕上っている。
もともとクローネンバーグは、奇形というマイノリティにシンパシーを抱く人で、それゆえに様々な奇形を描き、その不幸に寄り添って来た監督なのであった。
形は違えども、この主人公にマイノリティの不幸を感じ取り、そしてそれをクローズアップさせたのだろう。
ウォーケン演ずる主人公に対して優しささえ感じさせて、またとない美しい哀しい作品に仕立てていて、忘れがたい余韻を残す。そんな映画だった。
主人公は小学校の教師、学校でポオの「大鴉」を朗読する場面が出て来るところが、嬉しい。
彼ジョニーにはサラという恋人がいて婚約している。
しかしある日、車で交通事故を起し、それ以来寝たきりで人事不省に陥る。
それから5年。
彼は奇跡的に目を覚ます。
喜ぶ両親。
しかし、恋人は既に他の男と結婚していた。
目覚めてから彼には不思議な力が備わるようになっていた。
人に触れると、その人の未来がその予知が出来る、未来が見えるのである。
そのおかげで幾人かの人を救った。
未来が見えるだけでなく、不幸な結果を阻止し、未来を変える事が出来るようにもなったのだ。
テレビはその奇跡を取り上げ、彼は有名になるが、彼はセンセーショナルな扱いを好まず、家に引きこもるようになった。
大統領選挙が近づいて来た。
かつての恋人は、選挙の運動員になっていた。
再会。
ジョニーはまだ彼女を愛していた。
彼にとっては、5年経ったという実感がない。5年前のその時のままの状態で彼女を愛しているのだ。
ジョニーの思い、そしてかつての自身の恋の記憶が、サラを彼に近づける。
二人はそっと抱きあった。
ジョニーはある未来を見た。
大統領候補としてサラが応援している男、スティルソンと握手をした時だった。
例によって未来を見る、予知夢だった。
危険な夢だった。
それはスティルソンが核ミサイルのボタンを押す場面だった。
ジョニーの脳裡にあざやかにそれが浮かぶ。
彼が選挙で勝ち、大統領になれば彼は核戦争をはじめる。
もしそれが現実になれば、世界は破滅する。
ジョニーは決心した。
スティルソンを殺そう、と。
それはサラのため、愛する人のためだった。
ライフルを持ち出した彼は、会場で演説するスティルソンに銃を向けた-
交通事故に至るまでの状況を、クローネンバーグは淡々と綴る。
もともと、粘着的な、じっくりとシチュエーションを描く監督である。
その、淡々とした描写がいい。
だから、そのあとの不幸な出来事がよけい無残に映る。
そして、主人公の不幸は、5年という歳月を過ぎていっそう過酷なものになる。
未来を読む、というマイノリティ。そんなフリークスに彼は自分のせいではなく、誰のせいでもなく、望んだわけではないのになってしまったのである。
彼は嘆く。
超能力を得たことを喜ぶのではなく、嘆くのである。
クリストファー・ウォーケンという素晴らしい俳優を得て、この超能力者の孤独がいっそう鮮やかに浮きぼりされる。
そう、この映画はまたクリストファー・ウォーケンの映画でもある。
彼の代表作であり、最高作の一つでもあるのだ。
彼が自分の力を認識し、それを発揮する度に彼は孤独を深めてゆく。
世間と隔絶し、世捨て人のように人々を避ける。
その寂しい、孤独な姿がウォーケンの名演によって、くっきりと際立つ。
それが、映画の切ないムードを決定づけていたと思う。
ウォーケンがひたすら愛するブルック・アダムスはそれほど美人女優ではないので、彼が思い続けるに価するのか?とちょっと疑問なのが残念なところだ。
原作も読んだのだが記憶に残っていない。
やはり映像の方が圧倒的な記憶の力を持つのだろう。
クローネンバーグの映画作りは丁寧で、主人公をじっと追い続け、静かに彼を見つめつづけるのは、ほかの映画と同じだ。本人が決して望まぬ不幸に巻きこまれてしまうところも。
スプラッター描写がない分、それがきわだち、クローネンバーグがこういうアウトサイダーに目を向ける人であったことがより明らかにクローズアップされた。
当時のクローネンバーグ映画には非常に珍しい作品だったが、のちの彼のフィルモグラフィを考えると、それは納得出来るかもしれない。
彼は当然の事ながら、メジャーになるに連れてグロテスクに固執しなくなる。
常に、思いがけずマイノリティの道を歩まざるを得なくなる主人公を、痛ましげに哀しく見つめる、そんな目を持ちつづける監督であったのだ。
なお製作がディノ・デ・ラウレンティスで、どうしたのかと思った。
でも、だからこそ原作スティーブン・キング、監督クローネンバーグ、主演クリストファー・ウォーケンを揃えられたのだろう。