Movie Maniacs

地獄に堕ちた勇者ども

The Damned

1969年 イタリア=米映画

監督 ルキノ・ヴィスコンティ

主演 ダーク・ボガード イングリッド・チューリン ヘルムート・バーガー

14/2/6

 

三島由紀夫が絶賛し、澁澤龍彦が「ブッテンブロークスだ!」と叫んだ映画がこれだ。

非常に教養のある人たちに受け、またそういう人たちが喜ぶに相応しい教養を必要とする映画でもあった。

映画の冒頭、ディナーが準備されている場面から始まるのだが、これが「ブッデンブローク家の人々」の冒頭とかぶるのだという。

音楽はワーナーとの契約の関係で、モーリス・ジャールが担当しているがヴィスコンティは本来はワグナーを使いたかったという。もしワグナーが使われていたら、どのシーンにどの音楽が使われていたか、それも映画を見る楽しみのひとつになっただろう。

物語の骨格は「マクベス」を下敷きにしており、野心を抱いてトップに上り詰めようとした者が、転落するまでを描いている。

セリフは難解で、国家社会主義だの、ヘーゲルがどうしたこうしただのという台詞がぽんぽんと出て来て、初めて見た時は訳が分からなかった。

だが、訳が分からないなりに、というか、分からないのにこの映画の凄さは分かった。

 

誰が見ても、この凄まじさ、激烈さ、苛烈さに、圧倒されて物も言えなくなるだろう。

三島由紀夫は、これを見たあとでは「たいていの映画は歯ごたえのないものになってしまうにちがいない」と言ったが、まあ、そのとおりだと思う。

ただ、この時期、こうしたエネルギッシュな映画作品が大挙して公開された時代であったことは、覚えておかなくてはならない。

フェリーニの「サテリコン」も同年だし、パゾリーニは絶好調だった。アメリカ映画は反ベトナムで一色に塗りたくられていた。そんな時代だったのである。

それであるにしても、この映画が、たいていの映画が「歯ごたえのないものになってしまう」くらいのインパクトに満ちていることには間違いはない。

 

ヴィスコンティはナチズムを真正面から取り上げた。

映画に出て来る鉄鋼一家のフォン・エッセンベック家は、ドイツの実在のクルップ一族をモデルにしている。

ナチスに兵器を提供していた一族をモデルに、ドラマとしてはマクベスの物語を下敷きにした。

ヴィスコンティならではの視点であろう。

ヴィスコンティの映画は、すべてが家族の映画だと言っても良いのだが、これも邪悪で罪深い家族の物語には違いない。

 

フォン・エッセンベック家の当主の誕生日から話が始まる。「ブッテンブロークスだ!」という、あの始まりである。この始まり方のうまさよ。

ディナーの席に皆を座らせて、一族の者全員を紹介してゆく手際の良さ。

そして誕生会の途中で国会議事堂が放火されたというニュースが入って来る。この脚本のにくらしいほどのうまさ。

脚本はヴィスコンティと、エンリコ・メディオーリ、ニコラ・バダルッコ。いつものヴィスコンティ組である。

 

当主(じいさんである)の息子は戦死し、その嫁、ソフィは工場長のフリードリッヒ(ダーク・ボガード)を愛人にしている。

主人公は、このフリードリヒである。彼は当主の誕生日の夜、彼を殺し、一族の覇権をソフィとともに手中にしようとするのである。

そしてライバルを次々と姑息な手段で殺したり陥れたりし、鉄鋼王国の覇権を握るのであるが、思わぬところから綻びが出て来る。…

 

ソフィの息子、マルチンは変質者で女装癖があり、少女を強姦するという、ものすごく狂った青年だ。そして彼は母親のソフィに支配され、頭が上がらない。

このマルチンをヘルムート・バーガーが演じている。当時無名。このバーガーが凄い。

有名な映画なのでネタばらしも構わないだろう。

マルレーネ・ディートリヒばりのスタイルで登場して、我々を震撼させた。

彼が、フォン・エッセンベック亡き後の、若き後継者となるのである。この、意志のない、ただの欲望でしか動かない美しいだけのけだものが。

映画は執拗に、このマルチンを追う。

ヘルムート・バーガーが恐れを知らない若さで、この狂った後継者を演じのけている。さすがにヴィスコンティに見出されただけある。

ダーク・ボガードも、ほかの人も、バーガーと、イングリッド・チューリンが強烈過ぎてかすんでいる。

 

だが、ストーリーも強烈である。

有名な「血の粛清」事件を真っ向から描いている。

当時、ナチスにはヒトラーを守る2つの私設軍隊、SA突撃隊とSS親衛隊があった。

ヒトラー台頭に力を尽して来た突撃隊ではあるが、ならず者が多い突撃隊はナチスの頭の痛いところであった。

ヒトラーは、突撃隊をなんと葬り去る決意をする。

親衛隊に、突撃隊を皆殺しさせるというのである。

何という、ひどい話だ。でも、これがナチスの実話だ。

それを、演劇演出家のヴィスコンティがねちこく丁寧に描写する、その場面は圧巻で、映画の見どころになっている。

突撃隊がヴィースゼー(ヴィース湖畔)でパーティーを開いている。延々とその狂乱の場面が続く。

女装し、酔い、歌い、羽目を外す彼ら。

そして、騒ぎ疲れて彼らが眠りについた頃、ひたひたと押し寄せるSS隊員たち。そして…

これは、映画史上でも有名なシーンとして歴史に残る場面だろう。

まさに血塗られた、この映画を象徴する場面である。

しかも、実際にこんな風な実体であっただろうと思わせるようなものすごいリアリティに満ちている。そこが恐い。それでいて、ヴィスコンティ演出は冴えに冴えているのである。

 

「血の粛清」に乗じて、フリードリッヒもライバルを殺害した、というストーリーになっていて、しかしこのころになって来ると、フリードリッヒの影は薄くなって来る。

エッセンベック家の後継者、ネジの狂ったマルチンにSS親衛隊アシェンバッハが近づくのだ。

彼はマルチンの背中を押し、フリードリッヒの野望を挫くのである。

マルチンが何をしたかと言うと、この最後のネタバレだけはしないでおこう。それは、人にもあるまじきおそるべき鬼畜の行為だった。

そして、マルチンはSS隊員の軍服をほこらかに着込み、こうして鉄鋼一族の後継者はナチス親衛隊に取り込まれてしまう。

 

マルチンのせいで正気を失ってしまったソフィと、フリードリヒの呪われた結婚式のシーンも凄い。

カメラが部屋から部屋へと移る、そのカメラワークがとらえる、二人の敗残のむごい、悲惨な姿。カメラは、冷酷なほどにその姿をねちこく描写して、我々を震撼させる。

こんなむごい、残酷で、狂気で、おぞましい結婚の儀式のシーンはかつてあっただろうか。

マルチンはフリードリヒに言う。「国家社会主義と言うものを理解していないのかね。私でさえ理解出来たのに」

勝ち誇ったようにそう言い、マルチンはフリードリヒと、その妻になった母、ソフィにプレゼントをする。毒薬のプレゼントである。死ねと言うのだ。

彼が、毒薬をあおった二人に、親衛隊式の敬礼をする場面がラストシーンだ。その仮面のような美貌。

戦慄のラストである。

 

おそろしい、おぞましい映画であった。

だけれども、媚薬のように、その耽美に酔いしれてしまう映画でもあった。

おぞましいと思いながらも、惹かれてしまうのである。

この二律背反に、私は震えた。

顔を背けながらも見ずにはいられない。そんな映画に出くわしてしまった戦慄。

ヴィスコンティのあざとい演出が、ここでは最大限に生きた。

生涯忘れられない、ショッキングでしかも蠱惑的な映画であった、見てしまったことを幸福と呼んでよいのだろうか、それとも不幸だったのだろうか。

そんなことさえ思わせる、ひとつの誇り高い芸術品であった。

 

ルキノ・ヴィスコンティ試論

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