2001年宇宙の旅
2001 A Space Odyssay
1968年 アメリカ映画
監督 スタンリー・キューブリック
主演 キア・デュリア
14/2/1
リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」で始まる、太陽と地球と月が重なる映像。
これが「ツァラトゥストラ」の音楽を有名にした、映画の始まりだ。
日本語のタイトルは何だか軽くて、当時は宇宙を旅する家族の楽しい映画なのかと思っていた(「宇宙家族ロビンソン」と間違えている)。
だが、映画が始まった途端、そんな軽い雰囲気はどこかへ吹き飛び、ひたすら重厚で、訳の分からない世界がただただ続くのだ。
良くこんな映画が製作出来たなあと思う。キューブリックは本当にチャレンジャーだった。
私がこの映画を初めて見たのはもうすでに評価が定まっていて、ある程度、すでに映画の予備知識があって、カルト化してからの再上映の際であった。
骨から宇宙船とか、「美しく青きドナウ」をバックに宇宙ステーションが舞うとか言うことを既に知っていたのだが、知らなかったらもっと驚けただろうにと思う。
が、知っていてもその他の映像が充分にショックだった。もう、それはすごいショックで、あんまり驚いたのでネタバレなんかどうでも良くなった。
とにかくショック場面が多すぎた。冒頭の猿。いきなり猿。なぜ猿?しかもえんえんと猿。
何故、と考える暇もなく猿がわさわさと動いている。これは宇宙の話だったのではないのか?どこまで猿が続くのだ?
そのうち、私もだんだん猿になって来た。
猿に共感したり、同じように怒ったりしているうちに猿の気持になってしまい、すっかり猿になり、モノリスが登場した時には、椅子からずり落ちるかと思うほどたまげてしまった。映画の中の猿より驚いてしまったのだ。
映画だと言うことさえ忘れていたのかもしれない。私は映画の中に、はまり込んでしまうたちなのだ。
で、いきなり近未来。
月にアレが登場して来て、木星へ電波を発している。人類は、木星への旅を決定する。
宇宙船ディスカバリー号が登場して来て、ここでも宇宙生活を追体験出来るので、もう気分は宇宙旅行である。宇宙船の中にいる気分になってしまうのだ。
この映画はセリフが極端に少ない。ものすごく少ないので、淡々と映像に見入ってしまう。そして、臨場感たっぷりの映像に浸るのである。
だから、タイトルの「宇宙の旅」というのは間違ってはいないのだが、でも、少し違うのは、これは完全なフィクションだということだ。
アーサー・C・クラークの原作を映画化したもので、原作にはちゃんと書いてあるように、ある仮定に基いた、未来の話である。
だから、いくら映像にリアリティがあろうと、物語の骨格はフィクションである。
それが、見ていると、あまりにも映像がリアルなので、フィクションということを忘れてしまいそうになるのである。
ダグラス・トランブルなどが参加した特撮が見事であり、これは、あとになって多くがネタばらしされたが、それでも今見ても新鮮で、最近のCG映像なぞに負けていない。というより、とうてい勝ち目はないだろう。志しが違うのだ。
さてディスカバリー号では人工冬眠している宇宙飛行士と、作業している飛行士がいるが、そのほかスーパーコンピューターが搭載されていて、ハル(HAL)という。
これが、デビッド・ボーマン船長に向かって「おはよう、デイブ」などと言ったりして、妙に人懐こい。これがあとから伏線となって生きてくるのが、すごいところだ。
木星に近づくに連れてハルがおかしくなり、狂ってくる。冬眠している飛行士を死なせてしまったりする。
ボーマン船長は決意して、ハルの頭脳を凍結させてしまおうとする。
すると、ハルは命乞いを始めて、「これから歌を歌います、デイジー、デイジー」とか歌を歌い出す。これは恐かった。チャンドラ博士から教わったのだろう。
ディスカバリー号はボーマンひとりきりとなり、木星に接近するが、そこにあのモノリスが浮かんでおり、?と思っていると、いきなり宇宙の果てへ放り出される。
我々も放り出される。
もう、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも、果てしのない旅が続く。延々と、延々と、延々と、延々と、延々と、延々と、延々と続くのである。
もう何が何だか分からない。始めから分かる、と言うことを放棄して見なければ駄目な映画だ。
考えるな。感じるんだ。
スターゲイトがどれだけ続いたか分からないくらい長い間続いたあと、我々は、ついに宇宙の果てというところに辿りつく。
そこは…。
私はショックで、映画を見ながら本気で発狂するかと思った。
それくらいアレはショックだった。宇宙の果てがまさかあんな風になっているとは、もう想像力を超えていた。
これまで見ながら、何度もショックを覚えたが、このラストのショックは強烈だった。
思考とか、理論とか、秩序を超えて成り立っているのがこの映画なのだ。
考えては駄目なのだ。
これは体験をする映画である。
まさに宇宙旅行を、宇宙の神秘を、宇宙の果てを体験する映画だ。
何度見てもラストやそして映画の意味は全く分からないが、分からなくても良いのだ。体験したということが大事なのだ。
とはいえ、ストーリーはある。これは何度も言うとおり完全なフィクションで、未来のひとつの仮定である。
こういうことかもしれない、という話で、これはアーサー・クラークが提出した仮定で、これが事実ということではない。
いくら映像にリアリティがあっても、これは本当の話ではないのだ。
猿の前にアレが現れても、それはフィクションで本当の話ではないのだ。それを良く認識しておかないと、この映像に取り込まれてしまい、本当とフィクションの区別がつかなくなってしまう。
ラストをどう受けとめても良いが、それでもあのラストはフィクションだ。
そんな危険な映像でもあるのが、この映画だ。
時間の都合で、ラスト近くの映像を縮めてしまったという話も聞くが、どうなんだろう。
確か、初公開の時、あまりヒットしなかったと聞くが、口コミで広がっていった。
すごい映画というものは、そのようにしてやがては認められるものなのだろう。
スタンリー・キューブリックはこれで完全にカルト監督となった。
確かにすごい仕事をしたと思う。これ以外は佳作どまり、と私は考えている。
この映画が不滅なのは、監督に加え、特撮陣のリアルな仕事ぶりにもあると思う。
では、来週、水曜に合おう。(このギャグ、通じる人ももういないだろうなあ)