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市川雷蔵

2001/7/5


シネアルバム103 市川雷蔵

 

7月に入ると、京都の繁華街では、急にコンチキチンの祇園囃子が聞こえて来て、ああ今年も祇園祭なのだなあと感慨を抱く。
…ということを、去年もこの項(註.From京都)に書いた。

でももうひとつ、祇園祭が近づくと思い出すのが京都にゆかりの深い俳優、市川雷蔵だ。

市川雷蔵は、祇園祭巡行の日の朝、7月17日にこの世を去った。

だから祇園祭になると、京都人は自ずと市川雷蔵に思いを馳せるのだ。

勝新太郎と共に大映の看板スターであった雷蔵の享年は37歳。

私はその雷蔵の享年をもう既に越えてしまっている。
でも、雷さまは永遠に雷さまで、いつまでも銀幕の中の憧れのスターであり続けている。

早くに亡くなったけれど、出演作品はなんと150本以上、今でもそれらが上映され、ビデオで見る事が出来るのは、とても幸運な事だ。
沢山の作品が残っているから、あんなに早くに亡くなったという気がしない。
スクリーンでの落ち着きぶりといい、もっと年がいっていたようにも思うが、むごいことに、40歳にもならないで亡くなったのだった。

京都でも今年も雷蔵映画祭が催されるようだ。
例によって私は行けないけれど、心の中で、静かに雷さまを偲ぼう。

***

雷蔵といえば眠狂四郎。

テレビなどで演じられているふぬけた狂四郎とは全く異なる、孤独が滲み出た雷蔵の狂四郎だ。

始めてそれをテレビで見た時は、芝居の大げささに笑うしかなかったのが、だんだん病みつきになり、
「据え膳だ、いただこう」
などという呟きにシビレまくる。

市川雷蔵というのは不思議な俳優だと、その存在感にすぐにとりこになった。

芝居に、品がある。
色気があり、翳がある。

こんな日本の俳優は、他にはいない。
そう思うと、彼が稀有な存在だったことを思い知る。

もとは歌舞伎俳優で、複雑な生い立ちから、母と呼ぶ人が3人いた…
などというエピソードから、雷蔵という俳優の翳をおぼろげながら、想像する。

 

早世した、ということももちろん雷蔵を美化する原因にもなっているとは思う。

しかしそれでも、こんな俳優は彼以前にも、そして彼以後にも、もう二度と出て来ないだろう。

芝居が上手いというのでもない。
殺陣がうまいとも決して言えない。
短足で、顔が大きく腰が弱かった。背も低かった。

だがそれでも、その雰囲気からかもし出される気品や、孤独な翳りは無類のものだったと言える。

***

 

歌舞伎界から大映に入った時から主役級のスターであり、スターであり続けたが、大映が倒産する前に亡くなった。
それは雷蔵にとっては良かったのではないかと思う。
大映の凋落を知らずに逝ったのだから、彼は幸福だったのだ。

しかし大映という旧態依然の映画会社が映画らしい映画を撮っていた時代の、最後のスターであった。

普段の雷蔵は、まるで銀行員のようで、少しも俳優らしくなく、平凡な様子の人間だったという。
役柄によって役作りを徹底させ、役になりきる俳優らしい俳優でもあった。

スタッフの信頼は絶大で、大映倒産後、テレビで「木枯らし紋次郎」放映のため、旧大映スタッフがこのテレビ作品のため召集された。

主演の中村敦夫がトイレに自分の鬘を忘れて来た時、鬘係のスタッフが、雷ちゃんが生きていたら…、雷ちゃんならこんなことはさせないのに…
と泣かれたという。

若かったのに、人生設計もきちんと、俳優としての自分の先行きも、冷静に計算していた。
勝新太郎などに比べ、非常に堅実な、銀行員的な役者だったのだろう。

京都に住み、京都大映撮影所で映画を撮っていたが、晩年は東京に移り住んだ。

昭和44年7月、肝臓ガンで死去とものの本にはあるが、実際は直腸ガンだという。

雷蔵の自筆のエッセイには、滅多に出向かない祇園祭に夫人と出かけ、人ごみに揉まれながら、人並みの幸福を感ずるくだりがある。

祇園祭になると、雷蔵を思い出す所以である。


田山力哉著 

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