A Scene from Death in Venice
ベニスに死すのあるシーン
2018/8/10
「ベニスに死す」を最初に見た時(リアルタイムで)は、とにかく原作は読んでいた。
早くからルキノ・ヴィスコンティがトーマス・マンの原作を映画化する、というニュースはスクリーンなどで読んでいたので、
それで読む気になったのかもしれないけれども、
そのころトーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」やヘッセの「車輪の下」とか「知と愛」、アンドレ・ジイドの「背徳者」とか、
とにかくそんなものを読み耽っていたころだったので(みんな忘れたけど)、
その流れで「ベニスに死す」の原作も読んでいたような気がする。
そのころの岩波文庫で、岩波は本体に価格は表示されず★ひとつが50円という風に決まっていた。
「ベニスに死す」は星ひとつで50円。
50円で買える、長編ではなく中編くらいのわりと短い小説だ。
それをヴィスコンティは2時間以上ある長編映画にしたという。
短い小説をそれだけの長尺で描くのは、果たして成功するのだろうかとぼんやり思っていたような記憶がある。
映画は京都の朝日会館、「地獄に堕ちた勇者ども」と同じ映画館。ワーナー映画はそこと決まっていたらしい。
東郷青児の大きな壁画が描かれていた今は亡き三条河原町上ル。
人は入っていたように思う。
美少年と宣伝されていたので、それなりにそれ目当ての人がいたのだろう。
この映画にはいろいろ思い入れはあるけれども、まず見る前に一つ、映画化されることで思ったことは、
あのシーンはどのように再現されるのだろうということだった。
あのシーン。
ホテルの中庭で辻音楽師たちが音楽を奏でるシーン。
映画が始まってからすぐに、小説にものすごく忠実に作られていることにまず驚嘆した。
主人公は小説家から音楽家(マーラーがモデル)に改変されているが、そのほかは小説の記述どおりに丁寧に進んでゆく。
アシェンバッハがゴンドラに乗る時、ゴンドラの漕ぎ手とトラブルになって気分を害するところなど、
アシェンバッハのその気持ちが手に取るように理解出来るような、丁寧できめ細やかな演出。
中編小説を長編映画にする時は、ここまでゆっくりとした演出方法で、だからこそ忠実に再現出来るのだとまずそのことに驚いていた。
ホテルの中庭でのシーン。
避暑に来ている裕福な貴族たちがさんざめきながら、夕食のあと、ホテルのベランダや、中庭でひとときを過ごしている。
小説ではこのホテルの中庭に辻音楽史が来て、歌手が歌を歌い始める。
アコーデオンの伴奏で、途中でワハハハハ…、と笑うリフレインがついている、と小説では書いてあった。
映画化する時、この歌をどうやって再現するのだろう、と思っていた。
小説には楽譜も書いてない、どのような歌かをいくら文章で書いてあっても、実際のメロディーがどんなかは、
読む方が想像するしかない。
あの笑い声のリフレインつきの歌なんて、どうやって…、
歌をわざわざ作曲するのだろうか、そして笑い声をどうやってリフレインさせるのだろう、
とにかくとても難しいだろうと思っていた。
そのシーンが始まった時、ほかの人と少し離れて少年がベランダに立っている。
面白くなさそうな表情で、むっつりしているような感じも小説のとおり。
主人公の前にはザクロ色の飲み物が置いてあると小説に書いてあった。
映画はそのとおりに、主人公の前のテーブルに柘榴色のジュースが置いてあった。
驚嘆した。
彼はその飲み物に手をつける様子もなく…
という風にも書いてあったように思う。
そのとおりに映画の主人公もその飲み物に手をつけようとしない。
辻音楽師たちがやって来て、やがて当時の流行り歌らしい歌を歌い始める。
そして、歌を歌い始めると、あのワハハハハ、と歌うリフレインがものの見事に再現されていた。
まさに小説に書かれていたとおりの、小説そのままの、これ以上はないという感じで再現されていた。
小説からは歌は聞こえて来ないというのに、小説に書かれていた歌はまさにこの歌だと感じた。
多分ヴィスコンティは当時の流行の歌を調べたり、研究したりして、音楽担当のフランコ・マンニーノ(多分)と作り上げたのだろう。
当時の歌を発掘して来たのかもしれない。
それでも、この映画のこの歌の再現だけでも、この映画がいかにすごいかと、私はひとりで客席で興奮していたように思う。
最後に歌い手がベロを出して庭から去ってゆく、というところまで小説どおりだった。
映画を見たあと、学校で、同級生たちに、あの映画は小説に書かれている「柘榴色のジュース」まで再現していたと
休み時間にしきりに力説していたことを覚えている。
一緒に見に行った友人は、例によって、あまりにも気持ちが良くて途中で寝てしまった、と言っていた。
そのほかにも、映画館へ行くたび(何度も見に行った)退屈だったとか、寝てしまうとかいう感想をよく聞いた。
多分2時間、殆どアクションのない映画だ。
多くの人には退屈だっただろうと思う。
殆どの人にとっては、中年おやじが美少年を追っかける気持ちの悪い映画、という、当時の認識だった。
しかし私には、ひとつのシーンが変わるたびに、次はどんなシーンなのか、どんな構図のシーンなのか、期待ばかりで、
少年が現れるたびにアシェンバッハがどぎまぎするのと同じようにどぎまぎし、
二人のもつれ合うように視線が絡み合うシーンが出て来る度にどきどきして興奮していた。
とくに少女娼婦エスメラルダの部屋の濃密な描写、貴族たちが集う、ホテルのレストランのむせかえるようなさんざめき、
20世紀初頭の海辺の、海水浴客の風俗描写、
アシェンバッハが床屋で化粧をしてもらう、床屋の鏡の絶妙な使い方、
腐臭のするような消毒液がまかれた、橋のかかった無残なベネチアの裏通り。
退屈している暇はなかった。
あそこまで原作小説に忠実に映画化をしながら、なおかつ映画独自の映像美を追求していて、
20世紀初頭の臨場感をむせかえるような忠実さで再現していることに、ただ驚嘆していた。
見た時はきっと秋か冬だったような気がするが、映画の間じゅう、
映画の中でベネチアを覆っているシロッコの風が、こちらにも吹いて来るような気がして、蒸し暑ささえ感じていた。
蒸し暑い映画だった。
もう思い出の中だけの記憶で、再見していないから思い違いもあるかもしれないが、
初めて見た時の「ベニスに死す」のなつかしい興奮はこんなものだった。
語り出したら止まらない。
ほかにも沢山のむせかえるようなシーンでいっぱいだった。
この映画は、その人の美意識が試される映画だと思った。
あらゆる美がそこに詰まっていた。
芸術というものが、映画で作ることが出来るのだという映画だった。芸術としか言い表せない映画。
映画は娯楽だというけれど、確かにこれは芸術以外の何物でもない。
子供だったけれど、子供でもそれくらいのことは分かった。
いい映画はきっと子供にも伝わる。
卓越した映画は、子供でもこれくらいの感想を抱かせるのだ。
そう思った。
どのシーンにもドキドキし、わくわくし、終わってしまうのが残念な、私にはそんな映画だった。
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