Movie Maniacs

砂の器
1974

野村芳太郎

04/4/12

テレビドラマ化されて話題になったので、かねてより見たいと思っていた映画版「砂の器」を見た。

映画は、加藤嘉がすべてであった。

加藤嘉の顔がアップになるだけで、訳もなく涙腺が破壊され、号泣してしまう。
そういう映画である。
涙のすべてが、加藤嘉に集約されている。その風貌、演技、そこに映画の表現したかったかなしみ、哀れ、…すべてが詰まっている。

典型的なお涙頂戴映画である。
そして多分最高のお涙頂戴映画だろう。涙といっても号泣。号泣映画だ。

残念なのは、ドラマを見てから見たことだ。有名なので、内容の殆どを知ってしまってから見たことで、白紙の状態で見ることが出来なかった。だから、どうしても印象が割り引かれてしまうことだ。

 

加藤嘉のほかに驚嘆するのは脚本の出来だ。

この映画が、人の涙をこれほど絞るのは、最初からお涙頂戴とは言わず、初めは普通のミステリーとして展開し、推理ものかと思わせておいて、そして最後の30分で突如、泣かせに入る。
その脚本の鮮やかさだろう。

前にも言ったように、原作の松本清張の「砂の器」は、推理小説としてはとても名作とは言い難い。ハンセン病を取り上げたというだけで後世に残ると言った感じの、かなりいい加減な出来の小説だ。

この小説に出て来る「ヌーボーグループ」なる前衛芸術集団の描写なども、今の時点で読むと、笑いたくなって来るくらいのものだ。
映画では時間の制約もあっただろうが、これをすっぱりカットして枝葉を捨ててしまったのが良い。
関川を切り捨てたのが良い。
原作の、連続殺人をカットしたのも良い。トンデモ殺人を省いたのも良い。
結局犯人は一人殺しただけだが、これも映画の、最後の展開を考えるとこれで良かった。あえて、そうしたのだろう。

 

そして、カットの切りかえしというか、編集というか、ひとつのシークエンスでエピソードを描写する時、どことどこを描いてどの部分を省くか、という部分が優れている。
つまり、ドアをあけて部屋へ入る、という動作をどこまで描き、どこを省くか、この省略の仕方と見せ方の、タイミングが抜群だ。

映画のリズムというか、良い映画というのは、このタイミングとリズムが心地よいことが条件だ。
この点でも、この映画が卓越していることが分かる。
ミステリーであるから、捜査してゆくうちに徐々に秘密が明らかになってゆくという過程を、このリズム感で、引っ張ってゆく。まるで手練の職人芸のようなカッティングだ。

伊勢の映画館に飾ってある元大臣の写真の出し方がいい。
バーのホステス(島田陽子)を捜査線上に出し、その直後和賀と女の繋がりを説明するカットもいい。
この島田陽子のエピソードはかなり無理があり、疑問だが、観客には和賀との繋がりを説明して、捜査ではまだ知られていない和賀が犯人であることを示唆するのが心憎い。

そして、原作を既に読んでいる人でさえ、あっと驚かす仕掛がしてあり、ミステリーとして見ても、このどんでん返しがうまい。
映画のこのようなオリジナリティは原作を超えている。それどころか、この映画こそが、出来そこないの小説「砂の器」をあらゆるミステリーの頂点に押し上げたのだろう。

 

原作では、犯人はただの悪人で、(へんてこな方法で)連続殺人を犯す。犯人の心情にはいっさい触れておらず、新進気鋭の芸術家で鼻持ちならない上昇志向の持ち主、というくらいの肉付けになっている。
映画はこの犯人に、「太陽がいっぱい」テーマの肉づけを行なっているようだ。
クールで気障だが、どこかに暗い影があり、重い宿命を背負っているようだ。それが、女性を引きつけるのだろうか。

しかし、本当の犯人の心持ちは分からない。映画はそれを描写しない。描写しないで放り出した。
それを見た観客の想像力に委ねるという手法をとった。

この映画を見た観客が、一見して忘れ難く、そして、怒涛の感動をもってこの映画を絶賛するのは、この、犯人像を観客のそれぞれの感性に任せたという、この点にもあると思う。

幼い時の父と子の放浪、そしてそれからいかなる環境で成長しそのことを切り捨て、新しい人生を構築し、決別するに至ったか、成功した今、あの日のことにどのような心持ちを抱いているのか、そして、今、父に対してどのような思いでいるのか。
それらを知る手がかりは、映画の行間を読み取るしかない。

だから、人は狂ったようにこの映画を何度も何度も(繰り返し繰り返し)見返し、子の父への思いを想像して、飽きもせず泣くのである。

何という心憎い脚本だろうか。
良い脚本というのは、こうも人を夢中にさせ、狂わせるほどに、すごいのか。

泣かせる仕掛の、最高の場面は、あの、千代吉の告白場面だ。

あれほど会いたいと、ただそれだけを生きる望みとして、人外に甘んじて来た千代吉が、子の写真を見せられて、慟哭する。そしてその言葉。その時かれが発した言葉とは。
まるで歌舞伎の「俊寛」のような様式の泣かせである。
泣かせの規範として、古今で最高の場面だろう。

 

***

 

ただ、犯人像を放り出したことは、映画の良い点でもあり、弱点でもあった。

この映画には、これほどの作品であるにも関わらず、やはり決定的な弱点がある。

映画の良い部分がそのまま、弱点にもなっている。この構造が、一番問題だろう。

原作を読んで、この映画を見ると、加藤嘉を使っての、泣かせの演出がいかにあざといかが、良く分かるだろう。
とにかく、加藤嘉を持って来るだけで、すでに勝っているのだ。
これにいたいけな子供を抱かせ抱擁させる。
それだけで日本人なら涙滂沱の名場面だ。

この泣かせの根本に、ハンセン病を持って来ている。
子供と別れなければならない。ハンセン病だから。

これは、諸刃の刃と言えないか。涙を搾り出す要因として、ハンセン病を利用しているのだから。

ハンセン病の父に同情させることで、涙が成り立つ、だが、同情するということは、それが自分には降りかからない災厄だからだ。自分がハンセン病ではないから、病気になる可能性など殆どないから、安心して可哀相だと同情出来るのである。この、ハンセン病の扱いには、どうも釈然としないし納得出来ないものがある。
そこに胡散くささをどうしても感じてしまうのだ。

 

さらに、犯人像を放り投げたことは、それが根本的な犯罪への疑問にも繋がる。

映画は「宿命」という概念を出し、この曲を完成させることで、和賀の心を代弁しているようである。けれども、人を殺しておいていけしゃあしゃあと宿命というのに抵抗を感じる。

なぜ、犯人は三木を殺したのか。
「作曲の発表を控えた大事な時に、東京を離れるわけにはいかない」くらいの理由で、殺すだろうか。
あれほど父との別離を悲しんだはずの子が。

父をあれほど慕っていた子供時代と、恩人を殺しておきながら、(殺すのは)宿命だから仕方がないとでもいうような態度の人間との性格が、あまりにも遊離しすぎていて、それがネックになって、犯人の心情に矛盾を感じてしまう。

そこには絶対に、「父を恥じていた」、という犯人のマイナス要素がなくてはならないと思う。
人間の、この裏の、卑怯な部分を映画はまったく描いていない。
私は、それがこの映画の弱点だと思うのだ。

この犯人がなぜ、父を隠さねばならないのか。それは、父が疎ましかったからだ。
そこをすり抜けて、父との別離を悲しむ、父の子を思う心情が悲しいという美談にすり替えてしまっている。そこが駄目だと思う。

父(の病)を恥じて、出生を隠したはずだ。父(に会えないこと)に対してすまないという気持ちを持っているなら、それは、まず病を恥じている、という前提があって初めて成り立つはず。
そこを映画は逃げた。と私は思う。

それならいっそ、犯人は、宿命とは、などとうそぶくより血も涙もない冷血漢になってしまったと描いた方がまだ良かった。

 

そしてもうひとつ。

根本的なことだが、加藤嘉の父の、子に対する愛情への疑問がある。

千代吉の、子への愛は、もはや愛と呼べるような生半可なものではなく、執着というか、妄執とさえ言えるように思える。
子供を離したくないというのは、子供と離れたくないというのは、子への愛ではない。千代吉のエゴである。
なぜなら、千代吉は子と別れれば人でなくなるから。
秀夫だけは、らい病である千代吉を人外扱いしない。人として対してくれる。
秀夫といる時だけ、人でいることが出来る。この自分のエゴのために千代吉は子供と別れたくないのだ。

秀夫以外の人間にとって、千代吉は人以下だ。
乞食よりももっと下等な、人であって人でない、息をしているだけの腐った肉の塊。
千代吉にとって秀夫は、人であるための、最後の砦なのだ。

秀夫と別れるということは、みずから肉の塊に堕ちるということだ。だから、あれほど別れを拒絶するのだ。
けれども、千代吉は子のために別れる決意をする。
感動するのはこの千代吉の決意、究極の選択、最後に子の将来のために、自分を犠牲にする決意をする部分なのであって、放浪場面は、ムード満点ではあっても、ムードに流されすぎ、別れの場面も、あざといと思えてしまうのだ。

 

***

 

この映画には信奉者がたくさんいる。主に中年男性であるらしい。
30年前に何の免疫もなく見てやられた人たちだろう。
信奉者のことを、砂の器「映画原理主義者」というらしい。

確かに泣かせの規範として偉大な作品ではあるけれど、だからといって、流した多量の涙に紛れて冷静さを失い、これが日本映画史上の最高傑作であるとか、日本映画の金字塔などと過大評価し、原理主義に流れるのは如何と思う。
しかもラスト30分の放浪場面だけでこの映画を評価している人が多いことにも疑問が残る。

泣かせるから名作だとは言えない。
偉大ではあるが、それでも偉大なお涙頂戴であるに過ぎない。お涙頂戴だというきちんとした認識がいると思う。


★犯人は、ハンセン病の父をうとんじでいるというよりも、ハンセン病という病を呪い、自分にも宿っているかもしれない宿命と感じているらしい。父のせいだとは考えておらず、それは自分の宿命だと考えている。そのことは分かる。
けれども、それはきれいごとすぎる。
…ハンセン病に対して、恥というよりも呪わしいとか、恐怖感があるのかもしれない。
いずれにしても、隔靴掻痒の感があり、不満が残った。


★市川崑の「犬神家の一族」もそうだが、卓抜した映画作品が出来ると、以降それをお手本として、再映像化の際に手本を受け継いでゆく、ということがあるようだ。
「犬神家」も手本とされるのは原作の小説より市川崑の映画版で、「砂の器」も、まったく同じだ。
この日本映画のありようは、まるで歌舞伎の脚本のようだ。
「曽根崎心中」で雁治郎が即興で演じた型が、型として受け継がれているように、または「仮名手本忠臣蔵」が今日まで演じ継がれているように、「犬神家」や「砂の器」は、映像で繰り返し受け継がれてゆく日本人の好きなものがたりの「型」となりつつあるようだ。
ちなみに、「曽根崎心中」も、見れば必ず号泣の歌舞伎。

「砂の器」についてもう少し
「砂の器」とミステリーの映像化

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