レイ・ハリーハウゼンの夏休み
Holiday with Ray Harryhausen
03/8(14/1/19up)
昔に書いて、途中でほったらかしにしてあった文章に加筆しました。
「世紀の謎/空飛ぶ円盤地球を攻撃す」
「地球へ二千マイル」
私がひたすら愛する特撮の祖・レイ・ハリーハウゼンの名作が夏休み特集としてテレビ放映されていた。
愛すると言っても、よく考えたら私は「地球へ二千マイル」(金星竜イーマ)すら今まで見ていなかったことに気がついた。
見たといったら「タイタンの戦い」やシンドバッドシリーズなど、数えるほどだ。
尤も、日本では初期のハリーハウゼン映画は未公開、地方テレビで吹替え・カットで初公開などということも多いのだ。
今回の衛星放送での特集は、涙なくして見られない作品ばかりだった。
今まで見たいと思っていた作品をふんだんに見られて、私はこの世の無上の喜びを味わった。
これを機会に、今、ハリーハウゼンについて語らずしていつ語るのかと熱くなりながら、再びこの特撮の神様の技について、こころゆくまで語り尽そうではないか。
レイ・ハリーハウゼンもそのはじめには、川本喜八郎のようなというか、普通の人形を使った人形アニメ、モデルアニメーションで童話などを作っていたのが、驚く。
しかし、有名な「キングコング」でのウィリス・オブライエンのモデルアニメを見たことが、彼、ハリーハウゼンの将来を決定した。
ハリーハウゼンは恐竜のモデルを作り、アニメートすることに情熱を燃やしてゆく。
師とも言えるウィリス・オブライエンについては、「キングコング」さえ見ていない私にはどうこうと言うことは出来ない。が、ハリーハウゼンのアニメーションについてひとことで言うなら、「生きている」ということだろうか。
テレビの名画劇場で子供の頃見た、シンドバッドものなどのハリーハウゼンの特撮の記憶は、カタカタとぎこちなく動く、という形で残っていたけれど、改めてそのアニメーションをじっくり見てみると、ハリーハウゼンの、ものに対する「愛」が、溢れていることに驚かされる。
ハリーハウゼンの技術は、フィル・ティペット、ジム・ダンフォース、デヴィッド・アレン、デニス・ミューレンといった「スターウォーズ」組に受け継がれてゆく。
しかし、それら後発組のコマ撮りと比較してさえ、ハリーハウゼンの技術の繊細さは圧倒的である。
後発組は、もちろんハリーハウゼンの映画を見て育ち、彼に憧れて業界に入って来た者たちだ。
しかし、それでもハリーハウゼンの作り出した造型を、彼らは超えることは出来ない。
そこにはハリーハウゼンの、ものに対する情熱、クリーチャーへの愛が刻み込まれていて、その愛が、技術はコピー出来ても、決して真似の出来ないものなのだと気づかされるからだ。
ハリーハウゼンの作り出したクリーチャーたちほど、その作者の愛が迸っているものはない。
異形のものであっても、ひとコマごとに動かされることによって生命を吹き込まれたそれは、生きている人間たちより以上に生き生きと動き、存在感を与えられている。
ハリーハウゼンのクリーチャーを見るのは、だから感動である。
「世紀の謎/空飛ぶ円盤地球を攻撃す」(56年)では、ハリーハウゼンはいつもと違い、空飛ぶ円盤という無機質なものをコマ撮りで撮影している。
しかしこれがすごい。
高速で回転する円盤の存在感。どっしりとした重さを感じさせる質感。
それが不気味な回転音を発しながらくるくる回り、建物を攻撃してゆくさまは、まるで円盤そのものが生きているかのような実在感を感じさせる。
はっきり言って、「未知との遭遇」や「インデペンデンス・デイ」などをはるかに凌駕していると私は断言する。
この映画は、予算不足のせいでスローモーション撮影が出来ず、建物が崩壊するシーンの、建物の破片が落ちて来る場面をもコマ撮り撮影したという。
円盤がぶつかって、建物の破片がゆっくり落ちて来る場面には、優雅ささえ感じられる。
ハリーハウゼンが担当すれば、建物の破壊さえ感動を呼び起こされるのだ。
「地球へ二千マイル」に至っては、感動とか、感銘とかの、とおりいっぺんの感情を通り越して、驚異さえ感じる。
金星から持ち帰った恐竜の卵が、金星ロケットの不時着でイタリアで孵化する。
この金星竜イミール(日本名イーマ)は昔からハリーハウゼンの作り出したクリーチャーの象徴のような存在だが、誕生した瞬間から、巨大化してゆく過程を丁寧に描くことで、現実には存在しないクリーチャーながら、あたかもその実在が信じられるほどのリアリティを獲得している。
尻尾の動き方、歩き方、その動きに、ハリーハウゼンの魂が感じられる。
この生き物を、スクリーンで生かしたい、映像という虚構の中で、しかし確かに生きているというファンタジーを観客に与えたい。
そんな作り手の熱い思いが、このクリーチャーに乗り移っているのではないか。
「地球へ二千マイル」の特撮は、殆どがこのイミールを動かすことだけに絞られている。
それは、見る者にとって特撮を楽しむ、特撮に驚くというよりも、イミールという生物の生態を知るという楽しみの方が勝る体験である。
私たちはほとんどイミールに感情移入してしまい、イミールが愛しくてたまらなくなる。
だから、ラストは残酷に感じてしまう。イミールを殺してしまうなんて!
***
私が最初にハリーハウゼンを知ったのは前にも書いたとおり、「タイタンの戦い」からだった。
現在、CGによる驚異の映像が映画を席巻している。
だが私にとってはレイ・ハリーハウゼンを越す物は、その中にはない。
ハリーハウゼンの魂のこもったクリーチャーに比べ、何と味気のないことか。何と興が削がれるか。
カタカタとぎこちなく動くクリーチャーたちのなんという愛らしさ。
それらをもう2度と見られないのは、映画の不幸である。
ハリーハウゼンが90歳を超えて亡くなった時、ああ、彼が死んでしまったという嘆きと、まだ生きていたのかという驚きが半々だった。
長生きしてくれたが、もう彼は引退して、いや、映画のひとつの役割を終えてそれで映画を止めたのだ。
それでも、彼はたくさんの映画を残してくれた。それを見て、いつでもカタカタと楽しもう。
映画の楽しみは、いつでもリピート出来る事なのだから。