Movie Maniacs

The Last Samurai
ラスト・サムライ
A film by Edward Zwick
2003

including
The Glory
グローリー
1989

04/3/6


この悲愴なまでの昂揚感は何だろう。既視感がある。どこかで見た。
映画が終わってクレジットを見ると、監督がエドワード・ズウィックと出た。
ズウィックじゃ!そうかそれでか。分かったぞ。

私はエドワード・ズウィックに関しては一家言あるのだ。なぜなら、彼は「グローリー」の監督であり、その映画を見て私は思うところが大いにあったからだ。

良く似ている。そっくりそのままと言ってもよい。
非常にうさんくさいと警戒しつつも、あまりの昂揚感につい胸を熱くし、頬を涙で濡らさずにはおれぬ所などもそっくりだ。
物語さえある意味で「グローリー」と「ラストサムライ」は近似している。

「ラストサムライ」は、日本人や武士を美しく描きすぎている、武士道を美化しすぎている、或いは中途半端な武士道理解であるという批判がある。しかしそれは正しくない。
武士道というのは、この際この映画ではどうでもよいことである。味付けに過ぎないのだ。

ズウィックを一口で言うと、敗者の美学である。或いは、滅びの美学である。滅びに至る、陶酔。
ズウィックは、それを武士道に見出したに過ぎない。

アメリカでは、通常、勝つことがすべてだ。勝つことが善であり、価値である。負けることには何の価値もない。そういう社会である。
しかし、ひとりエドワード・ズウィックのみは、敗者に価値を見出すのである。

確かにハリウッドの映画には敗者を慰撫する系譜があるにはある。また異文化との交流・遭遇と、それによる悲劇の系譜もある。それらはそれで興業として成立しているらしい。しかし、ズウィックの場合はそれらが美と陶酔に直結する。

負けて死にゆき、歴史の一ページとなる。そこに負けた者の美がある。盛者必衰のことわりであり、奢れるものは久しからず。敗者は、美なのである。それがズウィックの映画に共通の理念であり美学である。
というわけで、話は「グローリー」(1989)へとさかのぼる。

 

「グローリー」は1989年の映画になるのか。もう随分前の映画だ。

ころは南北戦争。「ラストサムライ」にも冒頭、ちょっとばかり触れられていたのではないか。
北軍に、黒人ばかりで出来た部隊が作られる。それを指揮する北軍の白人将校が主人公・マシュー・ブロデリック。
良いとこのお坊ちゃんで世間知らず。だが理想主義で、黒人兵士との軋轢にもめげず、健気に黒人兵たちの訓練に励む。
映画の終章、北軍は南軍との雌雄を決するフォート・ワグナーの戦いに挑むことになった。
マシュー大佐は、北軍の総司令官に、思わず自分の部隊を先鋒にと志願する。
それは重要だが、行ったら決して生きて帰っては来られぬと覚悟をせねばならないポジションだ。
あえて、みずからそれを志願するマシュー大佐。
黒人兵士たちは喜ぶ。自分たちにやっと、仕事の出来る場を与えられたからだ。

その日、彼らが先陣として出発する、その行進を見つめながら、かつて彼らを、同じ北軍兵同士でありながら、差別し軽蔑していた白人兵士が最敬礼で送り出す。
この場面、あざといとは分かっていながら、つい涙せずにはいられなかったものだ。
そして、泰西名画のように美しく、かつ残酷な戦争場面が始まる…。

膠着状態に業を煮やしたマシュー大佐が、攻撃を決意する。自分一人で先にたち、敵の的になった。銃弾に倒れる大佐。
彼と対立し、決して大佐の言うことを聞こうとしなかった、一人の黒人兵士。大佐が旗手にと推挙しても断わった黒人兵(デンゼル・ワシントン)は、マシュー大佐が倒れた途端、近くにあった旗をむんずとつかんで、自ら攻撃に突き進んで行くのだった…。

この戦場場面の臨場感。…ときめきと陶酔。

デンゼル・ワシントンはこの演技でアカデミー賞の助演男優賞をもらった。アカデミーの撮影賞(フレディ・フランシス)ももらった。美しい画面だった。

「ラストサムライ」と違って、最後は全滅だ。主人公たちの部隊は全滅する。
マシュー大佐も、デンゼル・ワシントンも、他の黒人兵たちも、みな戦場に散り、同じ穴に十把ひとからげに埋められる。

ラスト。
マシュー・ブロデリックの死体の横に、デンゼル・ワシントンの死体が投げ入れられる。
ふたりはまるで、寄り添うように墓穴の中に葬られる。頬を、ぴったりと添わせて…。

史実では、白人と黒人が同じ墓穴に葬られることはなかったという。が、監督は史実をあえて変えて、このようなラストにした。

私の中の、やおい魂がむくむくと頭をもたげた。

そう、この映画、実はマシュー・ブロデリックと、デンゼル・ワシントンとの愛の物語でもあったのだ!(殆どこじつけ)。それゆえに、私はこの映画を胡散くささを百も承知で、賞賛するのだ。
デンゼル・ワシントンは、実は密かに、美しい白人将校を愛していたに違いないのだ(だってマシューだもん)。

「ラストサムライ」で、小雪がトム・クルーズに亡夫の鎧を着せつける場面がある。トムを裸にし、その体を慈しむように、着物を着せてゆく。あれが、あの映画の唯一の官能シーンであったように、「グローリー」も、ラストがあのストイックな映画の唯一のラブシーンであったのだ。
「グローリー」には、見事なまでに女が出ていない。それがまた、逆に官能をいっそう昂めていた。

(デンゼル・ワシントンが鞭打たれた背中あとをマシューに見せつける場面もあったのだ!)

*

 

私は、「ラストサムライ」が封切られたのが、日本のイラク派遣の時期と重なっていたので、実は勘ぐっていた。
日本人は、このように勇ましかったではないか。忘れたのか、武士道を。武士の魂を。忘れていないら、イラクへ行け。イラクへ行って、お国のために、世界のために貢献せよ。それが日本のすることぞ。
どうせそういう、アメリカのデモンストレーションなのであろう、と思っていた。

だがズウィックなら話は違う。

人は、死にたがらないものである。
イラクへ行くことに反対する人たちも、万が一あちらで派遣兵が死ぬことがあれば大変だから、といって反対する。
どんなにぶざまでも、どんなに恥を晒しても、とにかく生きていたい。それが普通の人間だ。

しかし武士は違う。名誉のためなら死ぬることを厭わない。死ぬことは、自分の生きざまである。美しく死ぬことで、生を全うするのである。だから死ぬ。ためらいなく死ぬ。

死を美化する。死の美学。それがズウィックの演出作法であり胡散くささである。
武士道ではない。それはズウィックの滅びの美学である。美しく死に至ることの陶酔。

死を賞賛することは、人の営みに反する。だがそれでもズウィックは、自ら死地に赴く男たちを賞賛する。
これは諸刃の剣である。9.11.で自ら死に赴いた人たちも同じ精神なのであるから。

それでもズウィックの暴走は止まらない。
死ね、と彼は言う。
自らの信念を全うしたいなら死ね、と。

 

死ぬと分かっていても男は行く。愛に殉ずるために、己れの信ずるもののために。それが美だからだ。
それを是とするか非とするか。
是とするにせよ非とするにせよ、異様なまでのズウィックによる魂の昂揚感に、ひとつのカタルシスがあることには、間違いない。

ボブを見よ。


アカデミー賞、残念でした。とても残念。
「グローリー」と同じく、助演男優賞・美術賞などにノミネートされていたから、行くかな、と思ったのだが。このノミネートのされ方を見てもズウィックの方向性が分かるというものだ。

また「ラストサムライ」が「グローリー」のように、トム・クルーズ×勝元(渡辺謙)部分で含みがあればもっと面白かったと思うのだが、トム映画としてはそれはしてはならなかったのだろう(^_^;)。
でもそれがあれば、最後の勝元の死の場面、エロチックだったはずなのだが(あくまでやおいの意見を通す私)。

 

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