「アンナと王様」を見て
2000年のMonthly Essayに書いたものの再録です。
2000/3/3
「アンナと王様」という映画を見に行ったのである。映画を映画館で見るのは2年ぶりくらいではないか。
私は実は「スターウォーズ」さえ見ていないのだ。「マトリックス」も見ていなければ、「アルマゲドン」も見ていない。
(まあこんなのは見ないでも良いだろうが)この前見たのは、確か「蓮如物語」だったと記憶する。
ウチが真宗大谷派ということもあり、このようなものを見たのであるが、あざとく泣かせる演出がしてあり、アニメ作品として、なかなかな出来であったのが驚いた。
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学生のころは、誰もがそうであるように狂ったように映画を見たものだが、やはり見なくなるものだ。
最近は休みになるとバービー買い出しのためトイザラスなどへ訪問するほうが先にたち、どうしても映画館には足が向かなくなっている。
RAIZO映画祭などという非常に重要な催しにも行けなかったのが慙愧のいたりである。
レンタルビデオが出始めた頃は、これまた狂ったようにレンタルしたものだが、いつも借りていたビデオ屋さんがなくなり、急に見なくなった。
また、私のテレビのブラウン管が狂い、頭でっかち超短足状態で人物が映るため、テレビ画面を見る意欲もなくなってきた。
とにかくパソコンをやり始めたら、今まで以上に日常の時間もなくなってきた。
テレビを見ている暇がない。ましてやプレステ2などする暇は毛頭ない。(初めからする気がない)
あのゲームを買う人達は、一体どこから暇を捻出してくるのだろうか。それがぜひ聞きたいものだ。
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というわけで、そんなに時間のない私が、なぜまた、わざわざ「アンナと王様」なのか。自分でも不思議だ。
ジョディ・フォスターをさして好きでもない。彼女の映画は殆ど見ていない。
チョウ・ユンファも「男たちの挽歌」くらいしか見ていないのではないか。それでもまあ、映画というのは、ある種、キャスティングで決まることがある。この映画など、キャスティングで殆どが決まった、と言っていいくらいだ。絶妙である。
見る前からアンナがインテリ女であり、王様がかつてのユル・ブリンナーのような怪人(?)でなく、ちゃんとした2枚目であることが分かるから、これが、ロマンチックな恋の気分に浸れる映画であることが予測できる。
アンナがインテリである、という設定がまたいい。
大変ムード溢れるハリウッドらしい映画で、いやらしいほどに音楽が盛り上がる。
こういう作品で、ヒロインがパーであれば、映画はひたすら甘く流れるだけのものになってしまうだろう。
そういうところをやはりジョディ・フォスターなら、しまるのである。
いかにも頭が良さそうだ。水気がなくかさかさしている。
それが王様によって、女であることを知らされ、教えられてゆく。ジョディ・フォスターだから、そういう設定に説得力があるのだ。
頭がよく、また美しく、いわゆる才色兼備というやつ。
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関係ないけれど、シャーロック・ホームズの「あの人」、アイリーニ・アドラーも、ホームズをいっぱい食わせるほど頭がよく、どこかの国王をたぶらかすほど色事に強く、美しかった。
こういうタイプの女、今は女の時代だからこうして脚光をあびるのだろうが、さて、実際にはいるのだろうか。本当にこの手のタイプは。
またこういう女を好む男性が本当にいるかも、疑問だ。
たいがい美しくてパー、な女がいいのだ。男というのは。だって、今日び、男の方もパーだもんな。
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ここまで書いて、半日の間、才色兼備な女性って果たしているのかと考えていた。
そして思い出したのが、版画家の山本容子という女性だ。
「誰でもピカソ」という番組で辛らつな批評をやっていた人だが、顔もなかなか美人で、最近出ているコマーシャルなどを見ると、おっぱいも大きいようだ。
美人で才能があり、女性的な魅力もある。こういうのを才色兼備というのではなかろうか。彼女など、女の私が見ても憧れるものがあるね。