象徴主義の絵の意味
モロー「オルフェウス」 「ガラテア」より
2017/8/31
オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘 1865年 154×99.4
オルフェウスは神話に出て来る有名なエピソードの主人公だが、
最後はバッカス教の女たちによって八つ裂きにされたという。
そして首だけが、彼が奏でていた竪琴に乗せられ、川に漂っていたという…
モローの「オルフェウス」では、首だけになったオルフェウスの残酷な感じはほとんどない。
竪琴は彼の頭部のための装飾のようでもあって、その中で、まるで眠るように目を閉じ、
彼がもう亡くなっているとは信じられないように、静かに眠りについているようだ。
竪琴を持つ娘も、じっと目を閉じている。
オルフェウスを見ることなく、ただ、詩人の竪琴を大事そうに抱え、そして目を閉じている。
目を閉じているけれど、まるでオルフェウスをじっと見つめているようでもある。
心の中で、見つめているようでもある。
オルフェウスも、もう既に息はしていないのに、白い貌は娘の方を向き、
閉じた視線はまるで娘を求めているかのようだ。
この見えているはずのない両者の視線の交錯が、この絵の究極のみどころだという気がした。
オルフェウスの竪琴の細部まで手の込んだ細かな装飾、トラキアの娘の衣服の緻密な描写、
そして効果的な背景には、牧歌的なパーン?がいたりする。(初めて気がついた)
細部まで緻密に仕上げてあるけれども、最終的に、見る者は、娘とオルフェウスの、無言の視線の交錯に行きつく。
そこに
目を閉じたままで見つめ合い、
永遠に無言の言葉を交わしつづけているこの二人の思いを感じて、そこに無限のドラマを思う。
この絵は、人に想像をさせる絵なのだ…。
娘は悲しんでいるように見える。
オルフェウスの無残な亡骸を手に、彼の死を嘆いているのかもしれない。
だが、そうではないかもしれない。
生きているうちは自分のものではなかったオルフェウスを、彼が死んで初めて自分の手に出来た。
彼女はオルフェウスを手に出来て、自分のものに出来て、もしかしたら充足しているのかもしれない。
生きて会話を交わすことは出来なかった二人は、それでも今、心と心を通い合わせているのかもしれない…
いや…
あるいは、娘はもう苦痛から逃れられたオルフェウスを、ひっそりと祝福しているのかもしれない。
やっと彼自身の安らかな時を得ることが出来たオルフェウスを、今、限りなく慈しんでいるのかもしれない。
慈しみの気持ちで彼の亡骸を胸に抱いているのかもしれない。
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これらのことはもちろん私の単なる想像だ。
もしかしたら、モローの意図した主題とはかけ離れた解釈なのかもしれない。
けれども、この絵は見る者に、このような、無限の想像の羽根を広げさせ、物語りを紡がせる。
絵の前に来たとたん、いろいろな思い、想像が自分の頭の中をかけめぐる。
それが象徴派の絵だということだと思う。
印象派は、絵の筆のタッチ、筆遣いの生々しさ、光の当たり具合、光のとらえ方、
静物をこのような形でとらえるのか、りんごをこのように描写するのか、
このような絵の具の使い方をするのか、
といったような、絵そのものを見た時の驚きを見る者に与える。
けれども象徴主義の絵は、絵を見た者に想像させるのだ。
頭の中に、いろいろな気持ちを抱かせるのだ。
やるせない気持ちになったり、切ない思いに溢れてきたり、絵を見ながら自分の頭の中にどんどん想像が広がってゆく。
そうして絵の前から去りがたくなり、いつまでも絵の前で釘付けになっていて、
いつまでも頭の中で想像しつづけている。
ああ、モローを見た。
これが彼の絵の持つ力なのだろう…
オルフェウスの首を運ぶトラキアの娘 左 水彩1864年 右 油彩1875年
左は水彩の習作のようだ。 トラキアの娘に後光を描いており、聖なる存在であることを暗示しているような…
右は後年に描かれたものらしい オルフェウスの顔が苦痛に歪んでいて、生きているかのように描かれている
ともにデッサン 左のものには崖の上に牧神がいるのがはっきり分かる
オルフェウスの頭部の習作
ミケランジェロの彫刻に基づいていると言われる
モローにとって、詩人は聖なる存在であり、芸術のミューズであったと思う。
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ガラテア 1880-81年 85.5 × 66 cm
モローのガラテアはいくつかのバージョンがあり、オルセー以外にも似た構図のものがくいつもあるが、
オルセーのリマスターの「ガラテア」は、色が深く、暗く沈んでいる。
ガラテアは海神の娘だそうで、(なので海の中に棲んでいるらしい)ニンフの一人だという。
だから彼女のまわりには、海の中の海藻や珊瑚などがずらり取り囲んでいて
彼女の白い肢体を引き立てている。
このモローの「ガラテア」は、モローの中ではそれほど上出来とは思っておらず、
あまり重要視していなかったかもしれない…。
なのでガラテアが海の底に身を横たえている図だということも知らずにいた。
オルセー版ガラテアは、暗い海の底が背景で、とても黒っぽい絵だが、その中でガラテアを取り巻く
海藻や珊瑚は闇の中からキラキラと光り輝いていて、ひとつひとつが宝石のように、闇の中で光を放っている。
近づいてよく見なければ分からないが、丁寧に仕上げた工芸品のように、織物のように見えて、
背景が暗闇だからこそ、ひとつひとつが輝いて、キラキラしているように思えた。
そしてガラテアの後ろに流した長い金髪の髪もキラキラ光っている。
彼女は何も知らぬげに、その白い肢体を誇らしげに、誰に観られているとも知ってか知らずか、
まどろむように海の底に身を置いている。
これが海の底だと知らなかった…
そして、この美しいガラテアを後ろから見ているのは巨人のポリュフェモス。
主題はギリシャ神話のエピソードから取られている。
醜い一つ目の巨人、ポリュフェモスが恋人のいるガラテアに横恋慕したことから悲劇が起きる…
というような話が伝わっているが、絵を見る時には、そのような物語はとりあえず、私は考えないことにしている。
モローの絵は、物語を説明しているのではないと思うからだ。
物語の中からひとつの場面を切り取り、そのひとつの場面だけから、
見る者にいろいろな思いを浮ばせ、いろいろな気持ちを抱かせる。
ひとつの場面を切り取るだけでいいのだ。
そこだけクローズアップすることで、絵として完結していて、そのほかに付随する物語はもう、考えなくてもよいのだと思う。
神話では醜い一つ目の巨人とされているが、モローの描くポリュフェモスは、三つ目の目が額にある異形として描かれ、
醜いというよりは、モローの別の作品のプロメテウスのような、深い思索に耽っているような、
運命をじっと耐えているような、
そんな自らの宿命と対峙しているような人物として描かれているような気がしてならない。
「ガラテア」は、構図としては、あまり成功していないと思う。
どのバージョンの「ガラテア」も同じ構図だが、
画面手前にいるガラテアと、後ろにいて、彼女を覗き見しているらしいポリュフェモスとの距離感が近すぎて、
遠近感が今ひとつ伝わらず、破綻しているようで、見る者に二人の距離感を納得させる説得力があまりないと思う。
同じテーマを扱ったルドンの絵(1914年)の方が、その点では出来がいいし、はるかに絵としてもよく、
遠近法的にも無理なく破綻がない。
何よりルドンのものは巨人(キュクロプスとされている)のイノセントさが際立っていて、
メルヘン的な天上的な高みに達していると思える。
ルドンの天上的なイノセントさに比べれば、モローのガラテアは、構図としても上出来ではないし、
あまりにも人間的な欲望に囚われ過ぎている。
それでもモローは構図的にも、主題も、繰り返し同じパターンで描いていることを思うと、
この構図で彼自身は完結していたのだろう。
別バージョンのガラテア 1896年 スペイン 水彩
ガラテアの白く美しい肢体に惹かれ、しかしそれは絶対に自分のものにすることは出来ない存在で、
ただ眺め、眺めることによってしかいつくしむことが出来ない。
その苦悩にとらわれながらも、ガラテアを見つめることで彼女を賛美し愛するポリュフェモスの熱い視線が、
それもまた、巨人が、見ることだけで一種の充足を感じているのではないか、
或いは、ポリュフェモスは第三の目でガラテアを見つめつづけることが、自分の宿命であるかのように、
彼女から目を逸らすことが出来ないでいるのかもしれない。
おそらく、目を逸らすことが出来ない運命をじっと耐えているのだろう…
そんな風にも思える。
そしてガラテアはその視線を知ってか知らずか、いや、彼女はじゅうぶんにその視線を感じ、知っているようにさえ見える。
そしてその視線に、自分の磨き上げたような白い肢体を惜しげもなく優雅に晒して、誇示しているようにも見える。
(ガラテアは眠っているという説もある)
モローはやはり視線の画家なのだ。
そして主人公の視線の交錯によって、見る者に無限の想像を与える、そんな画家なのだろうなと思う。
構図云々というより、描かれた場面から、
見ているこちら側が無限の物語をつむぎ出すことが出来る、
そんな絵なのだと思う。
モローの絵に惹かれる理由が何となく分かった。
それは私が、私自身が物語を描いてもいいから。
私が想像して、想像の翼を広げられるから。
だろうなと思う。
モロー美術館のガラテア
ガラテアのデッサン
ガラテアの態度がでかい…
オルセー美術館 リマスター「オルフェウス」「ガラテア」