04/8/27 尾形光琳 紅白梅図屏風の謎

 

NHKで、オリンピック放送の合間に、ひっそりと尾形光琳の「紅白梅図屏風」の謎について放送していた。

以前、この図をX線(?)検査にかけたら、背景の金箔が、実は金箔を貼ったのではなく、手描きされたものだということが分かった、という報道があったことは、私も大変興味を引かれ、注目していた。

NHKの放送は、検査の経緯を詳しく説明し、なぜ、光琳がそのようなことをしたのかの謎を解いてゆくという構成になっていた。

ただ私は、金箔が描かれたものだと言われても、どうしてもそれは金箔を貼ったようにしか見えないし、いくら調査の結果がそうだと言っても、それでも金箔は描かれたのではなく、貼られたものであるはずだと、信じていた。
なぜかというと、そんなにしてまで金箔をあたかも貼ったように手で描かなければならない、という根本的な理由がないからだ。
描かれたものだとすると、その理由があるはずだ。

四角いマスを、わざわざなぜ手で描く必要があるのか。金箔を貼ったと見せかける必要があるのか。その謎が解けなければ、それが描かれたことに納得が行かない。まあ、誰でもそう思うと思うのだが。

 

テレビ番組では、光琳が、なぜわざわざ手でバックの金地を塗ったか、塗らなければならなかったかを、見事に説明していた。
私もそれならありだと納得した。

光琳が背景に塗ったものは金ではなく、金泥といわれる植物から抽出した材料を用いた絵の具であった。この金泥でなくては、梅の木の「たらし込み」技法がうまく機能しないのだった。

ただ、なぜ金箔に見せかけたかということは、いぜんとして説明していなかったように思う。

前景の木を効果的に描くために金泥を使ったのだとしても、それではなぜただ金泥を塗るだけではなく、金箔に見えるように塗らなければならなかったのか。

でも、私なりの結論はある。

それは、金地をただ一面に塗っただけだと、背景の金の部分があまりにも単調になるからではなかったかということだ。

 

本来ならば、背景を塗る、という根本的な作業においては、誰が描こうと、背景に四角いマスがくっきり写っている状態というのは、背景としてはNGのはずだ。
なるべくならば、四角いマス目などのない、金一面の背景が、背景として理想なのだと思う。

金を使って、絵を豪華に見せたい。けれども、金箔を貼るとどうしても四角いマスが見えてしまう。
四角いマスは、本来ならば邪魔だし、出来るだけ目立たない方がいい。
これまでの画家は、それを屏風や絵画の欠点として、仕方が無いものとして受け入れていたのではないか。

筆で描かれた写実的な描写に対し、四角く区切られた金箔の背景はあまりにも違いすぎて、遊離している。描きたいテーマの邪魔になる。画家たちはそう考えていたはずだ。

だが、光琳はあえて自分でそれを描いた。
そこが光琳の光琳たるところなのだろう。

 

光琳は、かきつばた図では実際に背景に金箔を貼っているという。

かきつばたと梅図と、どちらが先に描かれたかのは知らないけれども、自分の金箔を貼った図や、他の人の描いた金箔を使った屏風を見て、本来なら邪魔なはずの金箔の四角いマスが、デザイン的にかえって面白いことに光琳は気がついたのだ。

背景を金地一色に塗ってしまうと、のっぺりしすぎて絵が死んでしまう。
幾何学的な金箔の背景と、前景の写実的な描写を対照的に描く方が効果的だ。

…光琳は、このように考えたのではないか。

呉服屋に生まれた光琳は、着物のデザインもしたし、有能なデザイナーであった。そのデザイナーとしての感覚が、屏風図にも生かされたのだ。

こういう手法で描かなければならない、というような西洋的なしゃちこばった考え方は光琳にはなく、ただ感覚的に、こうすれば効果がある、このほうがよりインパクトがある、そしてより美しい…そのような考えで、絵を描いて行ったのではないだろうか。

「紅白梅図屏風」、実物を残念ながら見たことはないので、本当は何も言えないのだが、でも、あれを画集などで見ると、私は必ずクリムトを思い出す。

幾何学的なデザインと金地の豪奢、という共通項で、梅図が、まるでクリムトの作品ではないかと思えてしまうのだ。

クリムトも、画家というよりはデザイナーであった。両者の距離は、東西の隔たりと時代の差にも関わらず、意外と近いのではないだろうか。

もちろん、光琳とクリムトとでは比べ物にならないほど、光琳のセンスの秀でていることは明らかなのだが。

紅白梅図屏風

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