キトラ古墳の壁画はぎとり

04/11/22のプチボードの補足

04/12

キトラ古墳の保存についてのドキュメンタリー番組を、例によってNHKで放映していた。
もちろんかぶりつきで見た。

「高松塚古墳の二の舞にならないように」というコメントがあったが、それなら高松塚は今どうなっているのだろう。カビカビでもうだめなのか?
カビで壁画がもう見られない状態なのか?

高松塚(の保存)は失敗だった、という評価が確定しているのか。それなら、高松塚はもう捨てる、ということなのか?
或いは保存に何か努力はされているのか。
高松塚をあまりにも軽く切って捨てたようなコメントに、私は慄然とした。

 

閑話休題。

キトラ古墳の壁を「はぎとり」保存すると聞いた時には、「はぎとり」という乱暴な言葉に思わず目をむいた。
でも、それしか方法が無いというのなら、そしてそうすると決めたのなら、それを成功させるしかないのだろう。
かなり論議があったと思うが、外国ではどうしているか、じゅうぶんな例を確かめてみたのだろうか。

私は常々、北朝鮮の壁画古墳がどうなのかに興味があった。
この前、北朝鮮で、初めて世界遺産に登録された壁画古墳である。
それは、日本のキトラ古墳などと、年代的にも近いと思う。
写真を見ると北朝鮮のそれは、美しい彩色がそのまま残されている。
どのように保存しているのか、それに興味がある。どのようにして、美しいまま保っていられたのか。

北朝鮮は謎が多く、日本人民にとってはいやな国だと思うが、こと壁画の保存に感しては、認めることにヤブサカではない。何か効果的な保存方法があるというのなら、教えてもらうがいいと思う。

 

日本は湿気の多い国である。だから、こういうものは保存されにくい。

古墳時代には壁画の描いてある古墳が数多くあったのかもしれない。だが、残りにくいお国柄なので、失われてしまったのかもしれない。

けれども、キトラ古墳は、にも関わらず、1300年、あの絵を保って来た。
それは何故だったのだろう、そして、それを保存しようとした途端、あのように無残にボロボロに成り果ててしまったのは何故なのだろう。
現代の科学で保存が可能だ、という思い上がりがあったのではないのか。
そんな風にも思う。

古墳のまわりをコンクリートで固めた、という説明がされていた。
コンクリートがいけなかったのではないのか。
通気がよくないだろう。空気が通らなかったのではないのか。

理屈なんかではない。
理屈では、空気を遮った方がいいのかもしれない。だが、そのような理屈をこね回し、科学的方法を施すことでこれまで1300年間、壁画が残って来たのではない。

ごく自然な状態だったから残って来たのだ。

それが人間の手が入り、人間があれこれいじったから、駄目になった。
このことを把握しなければ何にもならない。

古墳のまわりに変な建物を建てて空調を効かせたり、人工的なあれこれを施すから、自然な状態が崩れ、ボロボロになったのだ。

 

もうひとつ、高松塚にしても、キトラ古墳にしても一般人はそれを見ることが出来ない。これも問題だ。
貴重な文化財だから残さなくてはいけない。
でも、何故貴重なのか。美しく、見事だからであろう。それは、人間が見てそう判断したからである。
見ることも出来ないのに、残さなくてはいけないというのは、本末転倒だ。
永遠に、我々がじかに見ることが出来ないのなら、そんなものは残さなくて良いのではないのか。

我々の目に触れさせなかったくせに、ボロボロになったのだ。見せてボロボロになっていた方がまだマシだ。というか、見せなくてもボロボロになったのだから見せても良かったではないか。

 

エドガー・アラン・ポオの短編に、タイトルは忘れたが、植物状態のまま寝たきりになっている人間の物語があった。詳しくは覚えていないので、大雑把な記憶だけで書くが…

彼は、何十年も寝たままで、その代わり、昏睡状態に陥った時のまま、年を取らない。若い美しい青年の姿のままでベッドに寝たきりなのだ。
ある時、医者が何か施したのだったか、その彼が突然目を覚ます。蘇生したのだ。
しかし蘇生した途端、彼は急速に年を取る。
肉体は見る間に衰え、ボロボロと崩れて行く。
彼は叫ぶ。なぜ、寝たままにしておいてくれなかった。なぜ、起したのだ。と。
そうして、肉体はどろどろに溶け、彼は死ぬ。

ホラーとして秀逸な作品だった。

年を取れば肉体は朽ち、人は死ぬ。人の作ったものはいつか崩れ、やがて土に返る。それが、宇宙のなりわいなのだ。人知れず朽ちていくことこそ、祖先の人々の営みの、本懐かもしれぬ。

 

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