「ダ・ヴィンチ・コード」はでたらめだ
05/4/11
正式な書名は忘れたが「ダ・ヴィンチ・コード」が話題になっている。
私は読んだことがない。
ブームが去り、文庫になってからか、ほとぼりが冷めたころに読もうと思っていたので、そろそろ沈静化したころかと思って喜んでいたのに、映画化されることになり、残念なことに再び本が売れ始めている。だから現在でも安価で買えそうになく、私の財力では手が出ないので、読んでいないのだ。
まあどんなにしても読みたくてたまらないなら、定価で買えばいいわけだが、そこまでするほどの熱心さと興味はない。
図書館で借りて読め、と言われるかもしれないが、もよりの図書館がどこにあるか良く知らず、行き方も知らない。
そして、1週間で読め、などと期限を切られることが何よりも苦手な私は図書館となると及び腰なのである。ベストセラーは読まない、という主義ではあるけれども、レオナルドのこととなると知っておきたい。
そんなジレンマにやきもきしていたのだが、最近はテレビが注目して、あれこれと放送されるようになり、読まなくても内容がだんだんと掴めて来た。
何だかこれ幸いである。それに乗じて分かって来た「ダ・ヴィンチ・コード」について、読んでもいないのに批判しようという大胆な試みである。
つまり私が知っている「ダ・ヴィンチ・コード」についての知識は、テレビ経由でしかないので、以下に書くことは本来の書とはかけ離れているかもしれないことを断っておく。
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さて、この書物をどれだけの日本人が読んでいるのだろうか。
私は、さる絵画の展覧会で、あるカップルの若い男性が自分の連れの女性に、「イエスはマグダラのマリアに子供を孕ませたが、それが公けになると具合が悪いので…」などとしたり顔で説明していたのを目撃した。
明らかに「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでかぶれた男が、一刻でも早くこの新しい知識を女にひけらかしたくてたまらずに嬉しげに話している、というような風情であった。おまえ、イエスが子供を孕ませたとか言う前に、新約を読んでいるのか?と私は小一時間問いつめようと思ったが、見知らぬ人にそんなことは出来ない。
このように、「ダ・ヴィンチ・コード」の弊害は、キリスト教に疎い日本人の脳みそにこそ、侵入しつつある。
これを何とかしないことには、キリスト教に疎い日本人が、本当にマグダラのマリアなどが実在していたと誤解をしそうである。
西洋の、キリスト教を信じている人々なら、「ダ・ヴィンチ・コード」のような物語を荒唐無稽な作り話として楽しめるかもしれないが、日本人はそうではないのではないかと思うのだ。
つまりあれを本気にしてしまう人が、もしかして出て来るかもしれない。それとも、みんな、物語として面白がっているだけで、ちゃんと分かって読んでいるのだろうか。
私の心配は杞憂にすぎないのだろうか。
そこらへんが、私には全然分からないのだ。ベストセラーはむつかしい。単なる流行りだから、ブームが過ぎればみな忘れてくれるのだろうか。
けれども、「ノストラダムスの予言」が流行り、あれを信じていた愚かな日本人が少なからずいた訳だから、或いは、「ダ・ヴィンチ・コード」が日本でのみ、事実と認定されないとも限らないのではないか。
私はキリスト教徒ではないし、聖書をすべて読んでいるわけでもない。けれども、キリスト教系の学校で学ぶことくらいは知識として、ある。
だからといって、キリスト教の教義を擁護しようとか、そんな考えなのではない。ただ、事実と、一人の人間の単なる想像とが、それについて確かな知識のない者の間で、混同されてしまわないかと、それが心配なのだ。
専門家においては、まともに対応したら、それこそ、「ダ・ヴィンチ・コード」的なことが論議に値する、と世間に認定されてしまうからかもしれない。話にさえならないから、わざわざ取り上げることもしないのだろうか。
こんな風に、私の心配はとどまることを知らないのだった。
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読んでいないなりに、まず、私がテレビを見ていて問題だと思われたものに、「最後の晩餐」のヨハネが実はヨハネではなく、マグダラのマリアだった、という「事実」。
つまり、レオナルドは、「最後の晩餐」の12弟子の中に、一人だけ女性をこっそりと潜ませていたという説である。そうだとすると、レオナルドの晩年の作「洗礼者ヨハネ」の立場がないではないか。
洗礼者ヨハネと、イエスの弟子ヨハネはもちろん違う人物だ。「洗礼者ヨハネ」はもちろん、バプテスマのヨハネのことである。
「洗礼者ヨハネ」は、しばしば淫蕩、と称されるほど妖しげな微笑を浮かべている。「モナリザ」の男性板か。いや、男性というにはあまりにも妖しい。
レオナルドがしばしば好んだ、両性具有的表現だ。大体が、「最後の晩餐」のその他の弟子すら、曖昧な性で描かれている者はほかにいるではないか。
向かってイエスのすぐ右側の3人の、一番向こうにいる聖バルトロマイは、その素描を見ると、女性にしか見えないし、壁画でも女性的だと言って差し支えのない描写だ。「モナリザ」が男性的であるように、レオナルドの描く人物は、このように両性具有的人物がかなり多い。
単に女性的である、というだけで弟子ヨハネが女性だと言うのなら、モナリザを男性だと言わなければ公平ではないし、「最後の晩餐」における弟子は、3人くらい女性だと主張するべきである。
図像的には、イエスの弟子ヨハネは最も若い、という聖書(福音書)の記述から、画家たちは、常にヨハネを少年として描いて来た。
聖書にヨハネが若い、と本当に書いてあるのかどうかも本当は曖昧なのだが。ただ、誰かの弟という記述があったのだと思う。それで、伝統的にヨハネは少年だということになった。
このヨハネは「ヨハネの福音書」を書いたヨハネと同一人物だとされ、しかも「ヨハネの黙示録」を書いた人物だともされているが、この説はなかなか苦しくて、研究家の間では否定されている。
レオナルドにとって年若い少年を描く、ということは即ち天使を描くことに他ならない。
ヴェロッキオの有名な「キリストの洗礼」を見ると、レオナルドが天使を少年とパラレルに見ているということが端的に言えると思う。
天使は性が曖昧である。
であるから、レオナルドがイエスの弟子ヨハネの性を曖昧に描くのも、決してゆえのないことではない、と私は思う。
まだまだ言いたいことがあるが、もうひとつ、重要なことを言っておきたい。
テレビを見ていたら、マグダラのマリアがフランスに逃げた、という取材があった。
詳しいことは忘れたが、マグダラのマリアが、どういうわけか、フランスに逃げたのか、ただ旅をしたのか、ともあれフランスに住んでいたらしいのだ。しかし、そんなことが事実としてあるのだろうか。
西暦30年くらいの時代に、ユダヤの女がエルサレムからフランスへ旅するだろうか?
何の必然性があって?当時はフランスはフランスという国ですらなかっただろう。イスラエルのユダヤ人には、そんな土地があることすら理解されていなかったのではないか。
足で移動するしかなかった時代に、土地の存在さえ知られていないようなところに足が向くとは到底考えられないのだが。
もっと、常識をふまえて考えて欲しいものだ。
ペテロですら、ローマどまりだった。ユダヤ人が、当時そんなにヨーロッパ大陸を軽々と旅していたとは、私にはどうしても思えないのだが…。
というわけで、ほんの少しだけだが、「ダ・ヴィンチ・コード」に異論を唱えてみた。
読んでいないのだから、我ながら無茶なことを言い出したなあと思うのだが。だけれども、マグダラのマリアと聖母マリアは違う人?などと言っている人たちが「ダ・ヴィンチ・コード」を読んで信じるような気がしてならないので、いらんことだったかもしれないけれども書いてみた。
このエッセイの中に明らかな間違いがひとつある。間違いを指摘すれば50点。