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鈴木其一 江戸琳派の旗手

Rimpa19 SUZUKI KIITSU

2017年1月3日~2月19日

細見美術館

 

東京からの巡回で、京都・岡崎の細見美術館で鈴木其一展も1月に開かれていたので、行って来た。

 

其一は酒井抱一から教えを受けた直弟子である。

私淑という形で受け継がれて来た琳派としては、江戸時代になって、直に弟子を取るほど
一般的になっていたようだ。

しかし、其一は琳派の中では異色で、鬼才とか、テレビでも琳派の枠をはみ出した画家として
強調されているようだ。

確かに、プライス・コレクションの展覧会で見たことのある「柳に白鷺図」はかなり異色だった
記憶があるし、
単に琳派を継ぐだけでなく、そこにおさまらない、何か情念的なものがあるような気はしていた。

琳派を上手に継いでいるように見せかけながら、自分の個性を隠すことが出来ない。

抱一の予定調和的な洒脱を、それだけでは物足りない、思わず超えてしまう。

そういう思いを抱いていた、感じがする。

 

ただ今回、私が見に行った時期の其一展は、朝顔図もない、あのうねるような泥臭い「夏秋渓流図」もない、
もちろんプライス氏の白鷺のような異様なものもない。

これぞ其一というのが何もなかった。

富士に白鷺が飛んでいるという、かなり独特な屏風も展示の時期が外れていて見られない。

そんな状態での其一展だった。

 

だが私はあの朝顔図はあまり好きではない。

意図は分かる。人気もあるらしい。
光琳のかきつばたの明らかなオマージュであることも分かる。
しかし、朝顔というモチーフがいただけない。

朝顔は、抱一も好きだった。

抱一は朝顔を完全に様式化し、単純な記号とか、模様として描いていた。
其一は多分、光琳の、金地に青と緑のみという構成に惹かれて、
自分もその色合いのみで、何か描いてみたいと思ったのではないか。

私には、朝顔のみでは大画面がもたないから、
ああいう風にうねうねと画面を覆うように描いてみた、
それが露骨な感じがして、意図的すぎて、いや味に写るのだ。

なおかつ朝顔という花が、かきつばたなどよりも花として見劣りがする。
どうしても私には、金地に合うような上等の花ではないように思える。

朝顔は、抱一が描くような、他の花鳥画のように片隅に置くべき花で、
主人公になるべきモチーフではない気がする。

その本来なら主役になるべきではない花を大胆にそれひとつで
大画面を持たせてしまう、というところにこの屏風のキモがあると思う。
と感じる。
だが、ここら辺はもう自分の趣味の範囲になってしまう。
私はこの朝顔にげっぷが出て来て、
うるさいもうやめて、そう思ってしまうのだ。

これはまあ、私だけの感想だ。
抱一の洒脱が好きだからかもしれない。

細見美術館は岡崎にあり、平安神宮からもほど近い どちらかというと、東大路通から行く方が
早いかもしれないが…今回、記念に平安神宮の大鳥居を初めて撮ってみた

 

ロームシアター京都と、そこと向かい合っているみやこめっせの西側に細見美術館がある。

ここは一階から入り、順番に地下へ階段を降り、見て行く順路になっている。ちょっと不思議な空間と建物。

朝顔図は出ていないという無情の表示

チケットも

 

地下へ行く階段の踊り場に掲げてある軸

 


風神雷神図襖 前期の呼び物

 

私の行った時には「風神・雷神図襖」が展示されていたのだ。


前期・中期・後期で入れ替えがあったのだが、風神雷神が展示されていたのが前期で、
どうせ朝顔も夏秋もないなら風神でも…という感じで、
琳派の定番、風神雷神を其一も描いている(ただし襖)というので、見ておこうかと思ったのだった。

そしてこれが意外と良かった。 

 

私は、抱一の風神雷神は駄目だと思う。


抱一は私の大好きな画家で、もう好きで好きでたまらないのだが、
抱一の風神雷神は駄目だ。

光琳のはげしく列化したコピーでしかなく、信じられないくらい良くない。

いくら好きな画家でも駄目なものは駄目だ。それくらいのことは分かる。


多分洒脱・瀟洒が旨の抱一には、風神雷神の荒々しさが表現しずらかったのだろう。

抱一のフィールドではなかった。

抱一は光琳百図でけっこういい線の風神雷神を描いていたような気がするのに、
…あれはどうも其一の描いたものらしい。


比べて其一の襖図は、風神雷神を、宗達のような親しみのある愛嬌のある感じのキャラクターではなく、
恐ろしい自然界の奇怪な生きもの、というような感じにとらえていて、
風神雷神の神としての凄まじい力みたいなものを、改めてよく描写しているように感じた。

其一のアブノーマル好みがプラスに働いているような気がした。

 


水辺家鴨図屏風(全図)

細見の持っている家鴨の図などはユーモラスで、
視点がユニークで、琳派という括りを離れて見れば、
かえって其一の個性が見えて来るのだろう。


部分

このアヒルの屏風は(「」という)とても小さくて、寝室に、
布団の頭に置いておくものではないか…などと考えているのだが、
様々な家鴨の姿態が愛らしく、ことに後ろ向きになった家鴨のお尻が可愛くて私のお気に入りだ。

 

そのほかで良かったのが、「描表装」による掛け軸の数々。

掛け軸の表装は、西洋絵画で言うと額縁のようなものだと思うが、其一はここにも絵を描く。

絵を描いたまわりにも隙間なく描く。

それが、本来の掛け軸の中に描かれた絵よりも目立っていて、そちらばかりに目が行ってしまう。

描かれている題材そのものは、軸内部の絵も、表装に描かれたものも、
洒脱な琳派の絵なのに、表装にまで絵がはみ出ている点で、どこかやはり逸脱している感じがあって面白い。

このような部分で、やはり少しばかりはみ出ているな、
という其一の特色を感じることが出来て、とても楽しかった。

 

 

扇子がいくつか展示してあった。

扇子は琳派の得意のジャンルだろう。

写真のは舞扇だろうか、骨が10本で山が9間だから舞みたいだが、
汚れがないところをみると、やはり使われたものではなく、
作品として、飾り扇として飾られていたように思える。

どれも保存状態が非常に良いのに驚く。

ふつうの舞扇なら出来るだけけばけばしく作るだろうし、柄も一定だろうだから、
この桜の葉のような、たらし込みによる破調で小粋な柄は使わないだろう。


やはり琳派ならではの表現作品になっている。

舞扇ながら芸術している。

其一もやはり琳派の技法と作品は継いでいたのだ。

 

そして香包というのがガラスケースに展示されていたように思う。

お香の香木を包む包み紙だろうか、それともお香そのものを包んでおくものだろうか、
とにかく包み紙である。

それをかなり濃色をバックに模様を描いていて、広げて展示されていた。

香包は、宗達も作っていたのを記憶している。

やはりこれも琳派に伝わっている、「日常に使用される日常品を飾りたてて楽しむ」
もののひとつではないだろうか。

包んでいた紙だから折れ線がついている。

やはり日常で使われていたものだろう。

其一の作品も、とても濃い色のものだったが、これといった破綻のない、上品なものであった。

上流の家で使用されるような、上質の工芸品。

こうした工芸品も、其一はちゃんと受け継いでいたのかと、逆に其一の正当な琳派ぶりに
かえって驚かされた展覧会だった。

 

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