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Rembrandt Rembrandt

大レンブラント展

京都で奇蹟にめぐりあう

2002年 11月 3日 - 2003年 1月 13日
京都国立博物館

03/1/7

「大レンブラント展」などとまるで名古屋のような、このタイトルのつけ方は何だろうか。ただごとではない。

確かにただごとではないのだ。

過去、レンブラントの展覧会は日本でも多々、あったという。しかし、今回は約50点ほどの作品が公開されているというが、そのほとんどが、「画業の頂点をなす傑作中の傑作」であり、「これほどの作品が一堂に会する機会はいまだかつて」なかったのだという。

京都で開催されたあとは、ドイツのシュテーデル美術館に会場を移す国際巡回展となる、というから、日本ではここ京都が唯一の開催地であるのかもしれない。

そういうわけなら、確かにただごとではないだろう。
日本各地から、わざわざ京都にまで足を運ばなければ、美術ファンはこの大規模なレンブラント展を見ることが出来ない。
おのずと「大レンブラント展」といばる理由も分かろうというものである。

レンブラントを好きであるが、この展覧会が、それほど大規模でそれほど画期的なものなのかどうかは、私には判別出来ない。
画集で見知っている作品もあれば、初めて見る作品もある。
良いなと思うものもあれば、一瞥してさっと前を過ぎてしまうものもある。
「夜警」は来ていないし、「トゥルプ博士の解剖学講義」も来ていない。

ただ分かることは、ただごとではないということだ。

 

レンブラントは肖像画家である。

そんなことは誰でも分かっていようが、私は始めてそう、悟った。

ルネサンス期の画家たちも肖像を多作した。
バロック時代の画家たちも、肖像画を多くしたはずだ。
しかし、レオナルドもカラヴァッジオも、ラファエロでさえも、肖像画家と呼ぶことは我々の習慣には、ない。
優れた肖像を描いた画家たちといえど、肖像画家として特化しているかといえば、そうではない。
そうではなく、「すぐれた肖像も描く優れた画家」という認識があるばかりなのではないか。

 

レンブラントは、肖像ばかりではなく、旧約・新約を含めた聖書の場面を多く描いたし、版画、風俗画、また風景画さえ描いている。
しかし、にも関わらず、レンブラントは肖像画家である。

そのことを、この展覧会で知る。

見る絵、見る絵、肖像である。

例えば、キューピッドを描いた作品(「シャボン玉を吹くクピド」)でさえ肖像画である。
サムソンやスザンナやペテロなど聖書の逸話を描いたものでさえも肖像画である。

目を潰され痛がるサムソンのさま、覗かれていると気づき、こちらを振り向くスザンナの表情。
その表情からその人物の心理の奥、内面の深遠を探ろうとする画家の目がある。

金をもらって市民の肖像を描く、まっとうな職業肖像画家としての絵画ももちろん、その依頼主の精神の深奥を探ろうとしてやまないレンブラントの筆づかいがある。

時間をかけて人物を描き、絵の具を塗り重ねながら、その目、鼻、口を描き継ぎながら、そうして描いている時間、人物と共有した時間が、その肖像に濃密に表現されている。
描くことによって、人物の内面を理解し把握してゆく。

その人物と対面し、その人物の人となりを理解し、人物の人生、喜怒哀楽、何に喜び何に苦しみ耐えているのか。
人物を描くことは、その人物と向き合い、その人物を知ることだ。
人物をいかに正確に描けるか、はどれだけその人物の内面までを把握出来たか、で決定される。
レンブラントはその考えでもって、肖像を描いたのではないか。

描くことによってその人物を知る。知りたい、その欲望がレンブラントを突き動かしていた。
あるいはそのようにも、思えて来る。

膨大な数の肖像画を見て歩くうち、そのような思いを持ったのだった。

***

トローニーという、不思議な画法の一群がある。

架空の肖像、と説明されていた。

たとえば、聖書の登場人物なども、実在の人間を描いてあるわけではない。
どの画家もイエスはかくあるべしとして、架空のイエスという人物像を作り上げた。

レンブラントの場合は、それがイエスやペテロにとどまらず、名のない老人や婦人までも、単なる肖像として、特定の人物ではない架空の人物像を描いた。
それも、膨大な数をである。

習作と説明されている。あるいは、何か別の作品のための下書きのようなものであったのかもしれない。

トローニーは、当時、17世紀オランダ、で一ジャンルを形成しており、市民の人気を集めたという。
市民の間では、コレクションとして一般的だったのかもしれない。

レンブラントは、注文依頼が来る人気画家になってからもトローニーを描いた。

実在の人物でもないのに、その精緻な影のつけ方、光のあて方、刻まれた皺、あたかも実在人物の肖像のようにして描かれるレンブラントのトローニー。
まるでその人物の性格も、抱えている悩みも、一目見ただけで分かってしまう、そんな人物像である。
それが架空の人物だという、不思議さ。

レンブラントはなぜこれらのトローニーを執拗に描いたのか。

言いかえれば実在しない架空の人間に、なぜこのようなリアリティを付与する必要があったのか。

 

ひとつの推論として思うことは、レンブラントの興味は人間そのものだった、ということだ。

実際の肖像画を描くにしても、その人物の内面を掘り下げて行くうち、その人物の本質から、人間性、もっと人間そのものが持っている根本的なもの、を描き尽くしたいという欲望があらわになって来たのではないか。

肖像を描き、トローニーを描き、人物を描いて描いて描きまくっているうち、人間の本質、人間とは、人間の根本とは何だろう、そんなことを思い始めたのではないだろうか。

人間の本質を自分のカンバスにあますところなく描きたい。
正確に、間違いなくその本質を描き尽くしたい…

レンブラントの肖像画は、自然とそのような地点に立ってしまったのではないかと私は思う。

 

レンブラントは自画像も有名である。

不気味な、あの有名な「笑う自画像」が展示されていた。

さまざまに解釈され、その笑みの意味が取り沙汰されて来た。
ほとんど狂気と紙一重の肖像である。

しかし、私はこの絵さえも、レンブラントが自分という人間の、その深奥を探り尽くしたいがために描いたものではないかという気がするのだ。

晩年、すべてを失い、貧窮と失意のどん底で、そのどん底にいる人間の心理とはどのようなものなのか。

その内面を正確にカンバスに写し取るとすれば、自然とあのような姿になるのではないか。
レンブラントは、いつもの方法で自身の貧窮の姿を正確に写そうとしたに過ぎないのではないか。

それほどに、レンブラントは人間の本質を、絵の具によって追求して来た哲学者ではなかったかと思うのだ。

 

レンブラントのあくなき探求の手がいっとき鈍り、明らかにおのれの感情を優先してしまっているものがある。

それは、自分の家族を描いた作品群だ。

息子ティトゥスを描いた作品、妻ヘンドリッキェを描いた作品。
(展示されているティトゥスの絵は、どれも有名な作品ばかりである)

絵の具をごてごてと厚塗りした、幼いティトゥスを描いた有名な作品は、衝撃的だ。
その絵の具の厚塗りが、絵を描きながら描いている対象をいかにいとおしみ、いかに愛を注いでいるのかを雄弁に語っている。
厚塗りの筆致がそのレンブラントの感情のほとばしりを証明している。

やや疲れた表情をしている「女性の半身像」の、ヘンドリッキェを描く筆致のやさしさはどうだろう。
生活に疲れた女を描くレンブラントの筆は、その疲れを癒そうとするかのように優しくあたたかい。

 

レンブラントが肖像画家であり、そして偉大な肖像画家であるとするならば、それは人間の本質をどこまでも筆で追求しようとしつつ、人に対するやまない愛情を抱いていたからではないだろうか。



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