Exhibition Preview : My Favoutite Arts

皇妃エリザベート展

2002年8月31日〜10月27日
美術館「えき」KYOTO

02/10/31

 

オーストリア皇后エリザベートは、ミュージカルなどに取り上げられたこともあり、日本でも近年随分有名になった。

これほど有名になるきっかけは、日本ではやはりルキノ・ヴィスコンティ監督による映画「ルードウィヒ」ではなかったかと思う。
映画の主人公であるルードウィヒ2世の従姉妹としてロミー・シュナイダーが演じていたのを覚えている人もいるだろう。

両者ともドイツの名門ウィッテルスバッハ家出身だったのである。

「エリザベート」は、旧東ドイツ出身の尖鋭なオペラ演出家ハリー・クプファーがウィーンで上演して評判となったミュージカルで、日本では宝塚が上演しブームとなった。
日本ではこの上演でエリザベートという存在が一気にメジャーになったのではないだろうか。

それまで、―1960年代まで―は、どちらかというと、息子で、心中事件を起こしたルドルフの方がセンチメンタルな興味から一般的だったように思う。
この心中事件は、マイエルリンクの悲劇として「うたかたの恋」*という映画にもなった。

*36年(アナトール・リドヴァグ)
 69年再映画化(テレンス・ヤング)

歴史に登場するヨーロッパの王妃といえば、まだまだフランスしか知られていなかった時代には、オーストリアといっても日本人には関心の薄い国だったはずだ。
オーストリアがかつて広大な王国(帝国)だったことを知っている人もきっと少ないに違いない。
ましてやオーストリア・ハンガリー二重帝国といわれても「?」という人が殆どなのではないか。
あるいは、それは私だけかもしれないが。

私は、オーストリアというと今の小さな国しか知らなかったから、かつては帝国だったということが今ひとつピンと来ない。
ハプスブルグ帝国といわれて初めて、ああそうかというくらいなものだ。
その国の皇帝妃と言われても一層実感がない。
私も映画「ルードウィヒ」で初めてその存在を知ったのだった。

 

19世紀、ドイツには今のドイツという国はなく、プロイセン、ババリアなどに分れていた。
そのババリアにウィッテルスバッハ家があり、エリザベートはこのババリアの名家出身だった。
16歳の時、見初められてオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフに嫁いだ。

皇帝フランツ・ヨーゼフとエリザベート

 

肖像画に残るように、類いまれな美貌であり、また数奇な運命を辿った。
それが近年にわかにクローズアップされるようになったのは、先の映画や舞台などで美貌が知られるようになったからだろう。
いつの時代でも美貌の王妃というのは、女性のある種の羨望を誘うものなのかもしれない。

このエリザベート展、京都の美術館「えき」の5周年として企画されたもので、賑わっていたが、見事に女性の客ばかり。見たところ、100%女性客だった。
女性がいかにこの手の企画が好きか、いやほど分かる。

 

エリザベートの肖像や写真などを見て回っていると、こうしたヨーロッパの女王や王妃、皇妃というものが当時の女性のファッションリーダー的な役割を果していたのではないかという気がして来る。

優雅にポーズを取り、理想化された形で画架におさめられた皇妃の肖像は、着ているドレス、ヘアスタイル、化粧、ボディにいたるまで、それは一種の女性の規範を写しており、今で言えばブロマイドや、ポスターの役割を果していることは明らかだ。

女性がため息をつかないではいられない形で、市井の女性には手の届かない美の化身として、皇妃は象徴的な存在としてあったのだろう。


当時のブロマイド

そして皇妃エリザベートはそうした世の女性の期待と羨望に沿うべく、美に対するありとあらゆる努力を惜しまなかったという。

ここら辺から、世の中に一人歩きしているエリザベート伝説が揺らいで来る。

15歳で、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ(当時23歳)に見初められて結婚。
息子ルドルフの心中死、そして自身も60歳の時、スイスで無政府主義者に暗殺された。
時あたかも帝国主義から市民社会へと、世界がダイナミックに動き出した時期。
皇帝妃も波瀾の人生を送らずには済まなかった。

 

皇帝フランツ・ヨーゼフは、用意されたエリザベートの姉ヘレーネとの見合いの席で、妹のシシーの方を選んだと言う。
エリザベート伝説はここから始まる。
皇帝はエリザベートの美貌を見初めたという訳だ。

だが、展示を見ていると、だんだんにこの皇妃のわがまま、身勝手、エゴイズムが(みな同義語だ)際立ってくる。


ウエストの細いエリザベートの喪服

 

当時、コルセットやニッパーなどによって、ウエストを異様に細くすることが女性の間で流行った。
ウエストが細いことは女性の美の基準になってゆく。その体形は次第に誇張され、女性の内臓の構造を変えてしまうまでになる。

身長170p、ウエスト50p。
その驚異の体形がエリザベートのものだった。

そして異様なほどその体形に執着し、それを維持するためにダイエット、体操、マッサージ、サウナなど、さまざまな試みをした。
そのせいで栄養不良だったという。

宮廷生活になじめず、後年は公式行事に参加しようとせず、一人でヨーロッパを放浪した。
これを今で言うなら、雅子妃が皇太子との公式行事をすっぽかし、ひとりでどこかへ勝手に行ってしまうようなものだ。
現在の日本でも許されることではないだろう。

息子ルドルフは、心中の直前エリザベートに面会に行き、なぜかその場で泣き崩れたという。
わが子をも顧みず、自分のエゴを優先させて放浪に明け暮れた挙句のつけが、ルドルフの死であった。
エリザベートは悔恨にかられ、以後喪服で通したという(どこかの国の女王のようだが…)。

だが彼女の放浪は止まず、ダイエットも生涯続けた。
アナキストに殺害された時の体形も、ウエスト50pを保っていたという。既に60歳になっていたというのに。


ナイトキャップ

 

エリザベートのデスマスクも展示されている。

それは日本の人間から見れば驚くほど小さい。子供の顔のようだ。
そして皺ひとつない、凛とした、或いは気性の激しさというか、かなりの気の強さの現れている相貌であった。

だがこのデスマスクに関してはあとから知ったことだが、かなり美化されているということなのだった。
ベッドに横たわった彼女の死体の写真は、ただの老婆でしかない。

 

エリザベートは晩年、写真に写されることを極端に嫌った。
だから晩年の写真は殆どない。

写真を撮られると察したら、特注の扇で顔を隠した。
その扇も展示されていた。
大きな、豚の皮で出来た扇である。
それを片時も手放したことがなかったという。

若い時の美貌を誇っただけに、晩年の老醜を自分ですら認めたくないのだった。

エリザベートの靴

足を入れる部分にドライフラワーが添えられ、ガラスの中に入っている

おそらく、もとの展示場に、このままの状態で飾られ続けているのだろう

靴は驚くほど小さい
推定すると22pくらいしかないと思う

放浪生活は、お付きのものが大勢いての大旅行だった。
旅の道具一式を入念に準備しての豪華な船旅である。

旅道具も展示されている。

もちろんすべて帝国の刻印入りの食事セットや、身の回りの道具、移動トイレなど。
生活に必要なものはすべて揃えての贅を極めたものだ。

それはスイスで暗殺されるまで続いた。

夫、フランツ・ヨーゼフにみずから愛人をあてがってまで、自由な放浪に明け暮れた。

一方で詩作をよくし、自由に焦がれ、孤独にさいなまれ、それと戦った。
従弟ルードウィヒとどこか共通する性質だった。

 

エリザベートの伝説は、しかし死後も揺るがない。
というよりも、死んでのちこそ、その伝説は完成したといえるのかもしれない。
その実像とは関係なく、それは一人歩きを始め、悲劇の皇妃のイメージは定着していった。

今も伝説は増幅し続けている。
類いまれな美貌の皇妃という事実は、現代の女性をも魅了し続ける。
美化された肖像画によって、彼女は、女性たちの想像力の中でますます美化されてゆくのだ。

それは女性の憧れが、今も昔も、美貌と、一国の支配者であること双方を兼ね備えた者にあることを間違いなく示している。
いつの日にも女性は、権力と美にどこまでも貪欲なのだろう。


ついでに

バービーにも、コレクターシリーズで、エリザベートのバービーがある。
エリザベートは独身時代シシーという名で親しまれたが、「エンプレス・シシー」という名前で95、6年ころ発売された。
ヨーロッパでは廉価版(ピンクボックス)のシシーも発売された。
いずれも現在は絶版、日本未発売


参考文献

 

 皇妃エリザベート

 創元社
 知の再発見双書65

 カトリーヌ・クレマン著
 塚本哲也監修

 

 

 

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