Exhibition Preview

GIORGIO de CHIRICO
A METAPHYSICAL LIFE

終わりなき記憶の旅
デ・キリコ展

2001年9月1日〜10月2日
美術館「えき」KYOTO

2001/11/15

 

2001年は「日本におけるイタリア年」だった。
そのために日本では、デパートや各美術館などでイタリアにちなんだ催しが多く開催され、京都であのレオナルドの「白てん」の展覧会が行なわれたのも、イタリア年の一環としてだった。

そしてそのレオナルドが公開される少し前に京都で開かれていたのがこの「デ・キリコ展」だった。
この「デ・キリコ展」も、イタリア年にちなんだ開催だったのである。

見に行ったのがかなり前で、書くのが遅くなったけれど、2001年ならではの展覧会という事で、書きとどめておこうと思う。

 


自画像 1922年ころ

デ・キリコといえば、まず奇人というイメージが真っ先に出て来るのではないだろうか。
少なくとも、私の中ではキリコ=奇人という印象は定着している。

 

若いころ(1910年代)、「形而上絵画」として、"どこかで見た事のある情景"…デジャ・ヴを促す独自のモチーフで、シュルレアリストたちから評価され、また一般にも評判になり、一躍脚光を浴びながら、まもなくこれを放棄し、ルネサンスやバロック、ロマン主義的な先達の画家に倣びたかのような古典に回帰し、そしてそれから何十年かの後、今度は若き日の自分の形而上絵画を模倣した作品を大量に描き始める。

このような彼の絵画の軌跡を眺めると、奇人という表現がまさにぴったりだと思うのだ。


午後の魅惑 1972頃

 

今日デ・キリコが評価されるのは、何といってもその「形而上絵画」によってであって、それは、その形而上絵画が他の画家には決してない、彼独自のオリジナルなモチーフと視点、絵画の理念があるからだろう。

デ・キリコは、決して器用な画家ではないと思う。
というか、上手な画家ではない。

何をもって絵が上手かと言うのは、絵をたしなまない者が言うのもおこがましいけれど、たとえばデ・キリコは、デッサンが下手とか言うのではない。
デッサン力に欠けているとは思わないのだが、ただ、彼の絵画作品をじかに見て思うのは、絵の具の塗り方が雑というのか、力がこもっていないというのか、何となく絵の具に情熱が感じられないということなのだ。

強いて言えば例えばセザンヌとか、モディリアーニのような描き方なのだが、
対象の輪郭をはっきり描いて、そこに薄く絵の具を塗っていくというやり方…。

だが、デ・キリコの絵には、セザンヌや、モディリアーニほど確とした力量や、個性がない。
でもそれは、画家にとって、致命的な欠点という訳ですらないと思う。

絵が下手でも画家として駄目かというと、そうではないからだ。
現代の画家は、たとえ絵が下手でも、デュシャンやリキテンスタインのように絵すら描かなくても、そのアイデアというか、芸術に対するあり方だけで、アーティストとして成り立つのだ。

だからデ・キリコは、絵の具の使い方とか、絵の上手下手ではなく、まさに絵のモチーフ、タブローに何を描くか、で勝負する画家だと思うのだ。

+++

 

彼が20年代に、その自分の最大の個性である"形而上絵画"を放棄したのがどういう理由でなのかまるで知らないが…、
たとえばマンネリとか、…自分で、素材の限界に気づいたとか…、
そういう事だったのかもしれないけれども…、
とにかく彼が形而上絵画を捨てた時、彼は自分の個性もまた捨て去ったのだ。

絵画のテクニックは大した事のなかったデ・キリコは、形而上画を捨てて古典に回帰した時、その描かれた古典的絵画は、荒い、力のない絵の具の塗りで描かれた、あまり上等でない古典のコピーに過ぎない。

ああ、あれはドラクロワ風だ、あれはルーベンスだ…
と、先達のオリジナルを推測する楽しみはあるかもしれないが、それ以外に価値のある作品とはとても言い難い。

 

+++

話しが前後するけれど、今回の展覧会は、私にとって2度目のデ・キリコ展だった。

最初に見たのはもう何十年前か…、まだ高校生だったような気もする。
「キリコによるキリコ展」…
そういうタイトルの、京都で催された展覧会だった。

 

今回の展覧会は、彼の最大の呼び物である"形而上絵画"は少なく、それを放棄したあとの古典的作品と、そののちの、"新形而上絵画"…、つまり若き日に描いた自分の作品のコピー…、を中心にした展示なのだった。

 


「不安を与えるミューズたち」1960ころ
これものちのコピー

 

当然のように、本当の「形而上絵画」と、それを何十年か後にコピーした「新形而上絵画」とは区別がつきにくい。

他の誰かが模倣したのではなく、本人自身が真似ているのだから似るのも当然だし、またそれを贋作とも言えないし、実に奇妙なことだ。

「新形而上絵画」が、以前の自分自身の作品から発展したものでは決してなく、ただの模倣に過ぎない、ということが、一番奇妙だ。

ダリも、自分の有名な柔らかい時計の絵を、のちに換骨奪胎した作品を発表しているが、あくまでコピーではなく、パロディ的なものになっていたと思う。
デ・キリコのような例は殆どないのではないだろうか…。

+++

 

デ・キリコはギリシア生まれのイタリア人。
ヨーロッパ各地を転々とし、ミュンヘンで学びフランスで形而上画家として成功したという。
モランディやカルロ・カルラという画家が同じく形而上絵画を標榜し、デ・キリコととても良く似た絵を描いている。
しかしそれぞれのちに作風が大きく異なっていった。

形而上絵画はシュルレアリスト、アンドレ・ブルトンにも認められ、影響を与えたという。

 

 

おそらくデ・キリコはある時、ルネサンスやバロックの画家の作品を改めて見てその偉大さに感化され、自分の作風を捨てて過去の作品に帰存したのではないだろうか。

確かに過去の偉大な画家たちの作品は偉大であり、新しく芸術を志す者にとってはいつの日にもインスピレーションの源であると思う。

だが偉大な作品に全面的に絡め取られては自己の芸術が失われてしまう。
それさえもデ・キリコはよしとして古典に帰依したのだろうか。

 

先も言ったとおり、しかしデ・キリコには先達ほどの技量はないので、彼の描いた古典的作品は、昔の絵の上等でないコピーに過ぎないのだ。

そしてその奇妙な作品群を通過したあと、再び彼は自分の過去、形而上絵画に戻る。
戻ると言っても、若き日に描いた作品のコピーを始めるのだ。

あたかも、かつて自分の描いた形而上絵画が、ルネサンスやロマン主義の偉大な画家たちをコピーする価値があるのと同じくらい価値があるのだ、とでも主張するように。

つまり彼は、生涯をかけて自分の形而上絵画が、ティツィアーノやドラクロワなどと同じ価値がある、と言いたかったのでは…、
そんな風にも思えてしまうのだった。

デ・キリコの生涯は、サルバトール・ダリのような自己宣伝に彩られた生涯だったのだろうか。
そう言えば、自画像も沢山描いていたのだったが…。

 


アポロンの頭部のある生物 1974年

 

デ・キリコの本当の意図は分からない。

だが今回、一つ気づいたことがある。

 

キリコは、その活動の中期から、舞台美術に関わるようになっている。
そしてその舞台美術に関する展示もいくつかされていた。

バレエや、戯曲の舞台デザインとか、舞台衣装のデザイン画などである。

関わった舞台作品には、「バッコスとアリアドネ」とか、「ミノタウロス」とか、ギリシア神話的なものが多い。

そして、それらのデザインは、意外にも水を得た魚のように、生き生きとしていて素晴らしいものなのだった。

バレエの衣装デザインなどは、テーマとなっているギリシア神話的なものが絶妙にデフォルメされ、とても形而上絵画の画家の手になるものとは思えないほど粋で、レオン・バクスト並みの洗練されたデザインなのだ。

また、舞台美術にしても、近景と遠景のバランス感覚も、テーマを掴んで的を得たデザインも見事だ。

デ・キリコにはこんな才能もあったのだ。
或いは、ここにこそキリコの才能が真に発揮されていたのかという気もするのだ。

****

彼はまたジャン・コクトーや、アポリネールなどの文学者とも親交があったようで、彼らの本の装丁や、挿絵も依頼されている。
キリコは、文学や戯曲などの方面で評価されていたようなのだ。

そして、その本の関係の仕事も軽妙で、才能が煌いている感じなのだ。
デ・キリコは、むしろ、こういう方面の方が向いていたのではないかとも思える。

 


「月と太陽」 1972
この作品も、コクトーの本のために描いた挿画がもとになっている

 

コクトーの「神話」のためのリトグラフは、月と太陽がモチーフとなり、軽い冗談のような、漫画のような世界が表現されている。

これは、キリコによってカンバスに大量にシリーズとして描きなおされ、それらだけ見ていると(稚拙な表現のゆえ、)訳が分からないのだが、コクトーの文学の挿画だったと分かると、その稚拙な絵がそれなりに意味があったのだと分かる。

そして重要なのは、それらがどの場面でも舞台の書割のような、部屋の一室のような背景でもって描かれているということなのだった。

 

 

いや、よく考えてみると、デ・キリコの絵は、そのデビューの形而上絵画からして、もともと舞台の書割のようではなかっただろうか。

あの白日夢のような、どことも知れない広場に彫刻が置かれていたり、遠くに列車が走っていたり、少女が輪遊びをしていたり…、
そんな広場を好んで描いていたデ・キリコ。

さらに、天井の低い室内でのっぺらぼうのマネキンが格闘をしていたり、寄り添っていたりする情景。

マネキンの格闘は室内ではあるけれど、それに四角くロープを巡らせば、それはそのままボクシングの試合会場だろう。

デ・キリコの描く背景は、すべてそのような書割…、舞台の上の情景だったのではないのだろうか。

形而上時代にもっぱら描いていた広場は、彼の舞台そのものではなかっただろうか。

遠近法を用いているが、それが妙に歪んでいたりするのも、舞台の書割という点から眺めると合点のいくことではないか。
遠くに見える列車の煙や、帆船の帆なども、書割による遠景だとは言えないだろうか。

 

すべては、広場という舞台での、沈黙の劇だったのだ。
……
キリコが舞台を手がけたのも、当然の帰結と言えたのではないだろうか。

 

今日、デ・キリコはその晦渋に満ちた生涯の変転のゆえに、正当に評価するのがむつかしいのではないかという気がしている。
それが証拠に、流行している週刊誌形式のアート誌に、デ・キリコが掲載されているのをみたことがない。

しかし、今回の展覧会は、キリコを理解する取っ掛かりのようなものを垣間見た、そんな展覧会だったのは確かだ。


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