ART TOP | HOME 

Exhibition Preview

 

海北友松

KAIHO YUSHO

 

2017/5/17 17/7up


京都国立博物館 2017年4月11日~5月21日

 

海北友松(かいほう・ゆうしょう)は、以前に東山・祇園の建仁寺で雲龍図を公開した時に見に行ったことがある。



建仁寺は友松に襖絵を依頼し、それを受けて友松が雲龍図ふすま絵を描いたが、
台風か何かが来た時、その襖絵が少し傷んだ。

そこで建仁寺は襖絵を軸に仕立て直して保存したという。

その軸絵に仕立て直した雲龍図が、修復を終えたとかでその時、建仁寺で公開したのだったと思う。

(高精細複製が出来た時かもしれない…あんまり覚えてないのが…)


建仁寺の特別公開の時 平成21年4月29日~5月10日

 

襖絵といっても、寺院の襖は普通の家屋の襖より横幅がものすごく広く、
それを軸に仕立て直されたものだから、軸の一枚が非常に巨大で、
その巨大な掛け軸が、何枚も方丈の部屋いっぱいにぶら下がっていた。

(絵は連作で、もとは襖絵だから、部屋中の襖何枚もに龍が描かれていたのだ)


今、方丈に嵌っている襖の上に、その巨大な掛け軸が部屋じゅうにずらりとぶら下がっているさまは、なかなか珍しい壮麗な光景だった。



その時公開されていたのは雲龍図だけでなく、友松が描いた中国を題材にした多分、「竹林七賢図」?が、
隣の部屋にやはり襖絵から軸装に変えられてぶら下がっていたと思う。


どちらも大きさにまず圧倒され、そして雲龍図にはその迫力にも圧倒された。

とにかく巨大だった。

 


 

もと襖絵を掛け軸に直したものなので、掛け軸の下はぶら下がっているだけで、支えがないものだから、ぶらぶらしている。

巨大な軸なので、よけいにぶらぶらが無造作で、いいのかこれでと思った。



たとえ台風で破損したとはいえ、なぜ軸装にしてしまったのだろう、

襖絵として修復出来なかったものか、襖の方がずっとおさまりがいいのに、と、そればかり考えていたことを覚えている。




チケット 同じデザイン


ともあれ、龍の図は禅寺につきもので、また巨大な龍は描くだけでそれなりに誰が描いても迫力が出るものだ。

 

応挙さえ描いていたような気がするが(気がするだけ)、その絵も迫力があったという記憶がある。
(応挙はそんなに巨大なものを描くというイメージがないのだ…素人考えですいません)

とにかく誰が描いても一応さまになってしまうのが龍だと思う。



想像の生きものだけに、画家が自由に発想出来て、イメージを膨らませることが出来ることもあるだろう。


けれども定型があるから、誰が描いても同じような龍になってしまう、という事実もあると思うのだ。(寺院の襖絵に限り)

(軸物の小さいものなどは若冲がかなりデフォルメしている)

確か曽我蕭白もかなり大胆な龍の顔を描いていたような気がするし、個性的だったとは思うが、

おおむねほとんどの画家は真面目に描いていて、襖絵ならなおのこと皆同じような龍の絵で見分けがつかない、
というのが私の今まで見て来た雲龍図の襖絵の感想だったが。


友松の雲龍は大きいだけに迫力満点だった、そういう記憶だった。

 

祇園祭では、八幡山の会所飾りに海北友雪という人の祇園祭礼図屏風が宵山期間中、無料で公開される。

多分海北派の(江戸時代の)絵師なのだろう。

だから京都の人にとって海北友松は馴染みのある画家で、名前を知らない人はいないだろう。

 

そういうわけで、京都国立博物館で開催中の友松展へ行って来た。

 

展示は友松の時代順に並んでいて、武士の家の生まれではじめ狩野派に入り、何と狩野永徳に弟子入りしたという。


ずっと狩野派で描いていたが60歳前後で独立…(その間の消息は分からないらしい)

60歳…ってえらい年取ってから独立したなあと思ったが。

 



それまでずっと狩野派流の絵ばかり描き続けていたらしい。

そして独立後、狩野派の絵から離れ、だんだんと独自の作風を確立してゆく。

 


琴棋書画図(右隻) 妙心寺

 

転機はやはり建仁寺からのふすま絵の依頼。

久しぶりに再開した雲竜図はさすがに博物館では上下にきちんと止めてあって、ぶらぶらはしていなかった。

 


重文・雲龍図(部分) 建仁寺 



この雲竜図で、海北友松がいきなり爆発した感じ。

それまで大人しく狩野派をなぞっていた絵師が、いきなりため込んでいたらしい自分なりの手法を吐き出したという、
そんな感じがした。

 

連作の絵なので、展示数は建仁寺の時よりものすごく少ない。それでも大迫力の大画面。




「竹林七賢図」(部分) 建仁寺


「竹林七賢図」も展示されていたが、これもほんの少しだけ。

巨大なので迫力は相変わらずすごいけれども。


でも壁面いっぱいにだだーっと掛けられている迫力はないのだ。


今回の友松展はほかにいっぱい出ていて、生涯を辿るような展示の仕方だったからしようがないかもしれない

 

「竹林」の方は、中国の賢人を描いているが、大きい画面に大きな人物がどんと描かれている。

こんな大きい人物像は、日本の絵画でもなかなかお目にかかったことがない。

人物の服のアウトラインを描くのに、太い筆でいっきに描いていて、
その太くて大胆な筆遣いのテクニックがなかなかすごい。


この二つはそれでもやはり寺の方丈室内の、4方向にだだーっとふすまが張り巡らされている中で
見る方が迫力が違っただろう。

大きさに圧倒されながらひたすら驚きながら見る、というのが正解だと思うので。

***

 

それからなぜかまた上杉家文書の国宝が。


上杉景勝の書状で、海北友松の絵を受け取ったというような内容だったか?それとも贈ったとかいうような。

とにかく上杉美術館はいろいろ持ってるな。うらやましい、見に行きたい

 




文書関係では、画家が画料を受け取った時の領収書まで展示されていた。

そんなものまで残ってるのか。

寺からの依頼も

 



雲龍図屏風(右隻) 北野天満宮

 

建仁寺の雲龍図は好評だったらしく、それからは注文がいろいろ来て、
北野天満宮にも龍図を描いたのが展示されていた。

…似たようなもんすけど。大きさがコンパクトでした。


寺からの依頼も多くあったようで、さきほどの妙心寺なども友松にいろいろ依頼したらしい

 


花卉図屏風(右隻) 妙心寺

 

その後、京の公家などに気に入られ、大和絵の画風も習得し、華麗な花卉図なども描く。

天皇からの絵の依頼もあったらしい。

晩年になって、ようやく水を得た魚のように活躍した、遅咲きの絵師だったようだ。(とても長生きをした)

 


浜松図屏風(右隻) 宮内庁三の丸 

晩年の友松の宮家に伝わった金碧画

公家や天皇家からの依頼を受けてさまざまな技法にも長けたらしい



そして
…いろいろあって、最後の部屋に「月下渓流図屏風」

友松最晩年の図だそうだで、アメリカのネルソン・アトキンズ美術館というところから持って来た。


月下渓流図屏風  これは左隻

 

荒ぶる友松が80代にして到達した、コタンの境地。

モノクロームの水墨の中で、しかしわずかに小さな土筆とか、野の花などに彩色が遠慮がちに施してある。

まずそれに目が行く。

 


月下渓流図屏風  右隻

 


最後にこのような静かな境地に至ったか、という感慨はあったものの、展示部屋に入るさいに、キャプションで

等伯の松林図に匹敵する名作!
これが友松の最高傑作です!
たっぷり堪能してください!

みたいな学芸員の案内が。

うーん、これが最高傑作かどうかは見る人が思うものであって、
初めから展示者が勝手に決めつけるものではないと思うのだが…

まあせっかくアメリカから持って来たものだから、せいぜい宣伝したかったのだろうが。


しかしそういう案内があると、

そうなのか?
そう思わんといかんのか?

と変な先入観にとらわれてしまうのではないかと思い、ちょっと疑問に感じたりもした展覧会であった。




ちなみに海北友雪は、友松の息子、と展覧会に説明してあった。

 

Exhibition Preview | ART TOP | HOME

 

inserted by FC2 system