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Exhibition Preview

芳年 

激動の時代を生きた鬼才浮世絵師

Yoshitoshi  a Genius Ukiyo-e Master in a Turbulent Time

2017/4/15 17/7up

(一番下に残酷絵があるので注意)

2017年4月1日~4月23日 美術館「えき」KYOTO

 

月岡芳年の名前は(ほうねんと読んでいた)明治時代まで活躍した浮世絵師だったくらいしか知らなかったが、

彼の血みどろ絵とか、残酷絵などといったものが1970年代にブームになった、ということはあまり知らなかったと思う。

責め絵の晴雨の名は知っていたが、芳年もその方面で話題になっていたのなら、
名前を知っていたのはあるいはその時の記憶からかもしれない。

 

美術館えきKYOTOでこの芳年展が開かれていたので行ってみる。

「芳年 激動の時代を生きた鬼才浮世絵師」

 

 

展覧会のパネルの説明では、芳年は70年代にブームになった残酷絵の絵師としか今まで認識されていなかったが、

それは彼の仕事のほんの一部で、もっとほかに膨大なそれ以外の絵を描いた、
幅の広い題材を扱った絵師だと説明されていた。

 


チケット  チラシと同じデザインや

 

幕末から活動を始めた芳年だが、明治に変わってもまだ浮世絵は需要があったらしい。

その明治の浮世絵は、どういう形で需要があったのか、それが残酷絵のひとつの答えかもしれない。



義経記五條橋之図 明治14年(1881年)

 

けれども確かに残酷絵はほんの一部で、あとは水滸伝だの、牛若丸だのの物語絵(挿絵)などが多い。



どれもがアクロバティックで、大胆で豪放な構図で、きらびやかなものだ。

これらは明治時代に大変受けて、芳年は明治という時代にそうとう活躍した絵師だったという。

とにかく膨大な量の作品を描いている。

 


魁題百撰相 駒木根八兵衛 明治元年(1868)

真正面から兵士をとらえ、銃口を見ている側に向ける大胆な構図の迫力


戊辰戦争などの戦場に赴き、そのドキュメントを絵にしていたということだが、
そこで兵士たちの惨状を実際に見聞し、スケッチなどをしたという。

 

何度も精神を病んだことがあり、活動を中断したとも。それらのことが影響したのかもしれない。

残酷絵をなぜ手掛けたのかは分からないらしいが、とにかく幅広く何でも描いたので、要請があって描いたのかもしれない。

 


英名二十八衆句 御所五郎蔵 慶応2年(1866年)

江戸時代末期の不安感がシルエットに感じられる

 

 

芳年の残酷絵は顕著なところでは伊藤晴雨に影響を与えただろう。

70年代には三島由紀夫や横尾忠則などが評価したという。

 


風俗三十二相 うるささう

 

ただ、本当にそのような残酷絵は確かに出品されている中でもほんの一部で、

むしろ一連の女性の艶姿を描いた「~そう」シリーズの、
女性の無邪気な媚態を描いたものなどの方が秀逸で、とても美しい。


猫と戯れている無邪気な女性の図が、なんとも艶めかしく、無邪気で、生き生きとしている。


 


風俗三十二相 かゆさう

 

ほかに「かゆさう」とか「いたさう」とか「~さう」というタイトルがついた女性の絵のポーズが色っぽくて、
このシリーズも結構有名だと思う。

蚊に咬まれたのか、蚊帳から乳房をむき出しにしたまま出て来た女性の何とも色っぽい姿が、
繊細な彫りで美しく表現されていた

 


風俗三十二相 かわゆらしさう

赤ん坊を抱いている母親の愛情にあふれた姿が何とも言えず、微笑ましい

残酷絵を描いた同じ絵師とは思えない。

芳年はむしろこのような女性の姿を描く方が生き生きとしていたようにも思える。

 


浮世絵のためのスケッチ 19世紀

 

最後の方に版木一枚と、肉筆の素描2枚が展示されていたが、


浮世絵を見るといつも思う、やはりとにかく細く細かい線で、とても繊細な表現がされていることだ。

本当に細かい小さなところまで丁寧に彫られていて、どんな絵であれ、まずその彫り師の技量に驚かされる。

その展示されていた版木も、ものすごく細かい細工が良く分かるものだった。



そして、肉筆の素描はすごい。

2枚とも人物を描いたものだったが、ただの素描だが、日本人の絵師はこれほどの技量があるかという、
ものすごい迫力のある素晴らしい素描だった。

素描を見るとその画家の実力が良く分かると思うのだ。

きらびやかで大胆で、極彩色の錦絵では、その極彩色に圧倒されてよく見えてこないが、
素描を見るとすごいデッサン力があることが良く分かる。

浮世絵絵師は、多分みなこのようにものすごい技術を持っていたのだろう。

 

***

(残酷絵一枚あり)

 

なぜ芳年が残酷絵を手がけたか、それは需要があったからだろう、としか言いようがないが、

かなりはっきりした残虐な場面もあるが、ただ、赤い絵の具がたくさん使われて凄惨さを強調しているが、
傷口がどこにもなかったりするものもあって、実際の絵を見るとさほど狂ったような残虐さは感じられないのだ…

 

ただ、私は何度も浮世絵を見てそのたびに書いてるが、浮世絵は彫り師の彫りの線の繊細さ、
技術の細かさがものすごく際立っていて、その繊細な技術の素晴らしさにまず目が向いてしまう。

残酷絵でもその技術が繊細で、それで中和されてリアリズムをあまり感じないのだ。

 


奥州安達がはらひとつ家の図
明治18年(1885)

 

もっとも有名なのが、この妊婦を吊り下げている図だろう…

黒塚から題材を取っていて、気の狂った山姥が食人鬼と化し、犠牲者を求めるという図

発禁処分にされたという



一連の残酷絵で一番印象に残ったのがこの妊婦の絵だったが、これは責めているのが山姥で、
男ではないところが、かえって情念を感じさせるのかもしれない。

*****

 

明治の後半になって、浮世絵の需要がなくなって来て、芳年もかなり没落したらしい。

そしてまた精神を病んでいたという。

浮世絵の需要がなくなるのは世の移り変わりによる無理のないことだっただろうけれども、
その浮世絵の歴史の最後期に花を咲かせた、芳年という、すぐれた画家に思いを馳せた展覧会であった。

 

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