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暁斎
Kyosai

2008/5/16

2008年4月8日〜5月11日
京都国立博物館

 

河鍋暁斎は、江戸時代から明治にかけて活躍した画家で、7歳の頃、浮世絵師・歌川国芳に弟子入りし、次に狩野派の絵師についた。

そのため浮世絵と狩野派の伝統的な技法に精通し、どのような絵でも描くことが出来た。

明治に日本に来日した、建築家のジョサイア・コンドルが暁斎に弟子入りしたことは有名である。

 

私が暁斎の名をはじめに知ったのは、百鬼夜行図を集めた本でだ。暁斎は、明治期に百鬼夜行図を描いたのだった。

次に暁斎の名を聞いたのは、コンドルが暁斎に弟子入りしたというエピソードで、岩波文庫でコンドルが書いた書物が出版された時である。

この本を書店の店頭で見て(買わずに立ち見しただけ)、暁斎の名はどこかで聞いたことがあるなあ、そうだ、百鬼夜行の本に出ていたなあと思い出したのだ。

 

暁斎についての知識はそのくらいだったが、京都国立博物館が非常に気合を入れて特別展を開いた。

若冲で大当たりを取った博物館が、その夢よもう一度とばかり、曾我蕭白や永徳についで、ブームを狙って催したものだ。

実際の観覧客は、それらの展覧会ほど人が多くはなかった。かなり空いていて、見るものにしてみたらとても見やすかった。

それでも展覧会にあわせて暁斎の絵の特集本が発売されたり、同時期に京都国際漫画ミュージアムで暁斎の漫画(挿絵)に絞った展覧会が行われたりして、暁斎の名前は、この時期にそこそこメジャーになったのではないかと思う。


コンドルが所有していたという大和美人図屏風(部分)
畢生の大作という 

 

展覧会を見て思ったのは、暁斎は暁斎は大いなるニ流の画家である、もしくは超B級画家だということだ。

デッサンがいくつか展示されていて、それが超絶的に上手い。

とにかく上手い。

そして、どんなものでも描ける。

人間なら男から女、ジジババ(失礼)、子供、赤ちゃんから幽霊、人面犬まで死角がない。

動物も犬猫鳥猿何でもオールラウンドに上手い。苦手がない。

人のポーズも、どんな風にでも描ける。

浮世絵と狩野派に師事し、絵を学んだということだが、基礎がすごくしっかりしているので、何でもどんな風にでも描けるのだ。

遅れて来た北斎という感じだ。

 

新富座妖怪引幕
こんな幕まで引き受けて描いた 

 

江戸時代から明治にかけて活躍した人だが、もう少し早く生まれて来ていたら、北斎と並ぶくらいの名声を得たかもしれない。

時代が悪かった、遅すぎた。

明治にいろんなものが入って来て、西洋が尊ばれ、本来の日本的なものは、西洋よりも劣っているとして、否定されるようになった。

日本画も評価を落してしまった。

そんな時代に生まれたために、とにかくどんな仕事でも引き受け、どんな絵でも描いた。

そうしなければ、日本画が生きていけない時代であった。

 

暁斎は描きすぎて、器用貧乏という感じになってしまった。

しかも近代から明治の人だから、昔の人よりも理が優っている。

頭が良いから、絵を理屈で解釈する。

そうなると昔の人のイノセントさが失われてしまう。

北斎などもそういう部分があったが、良くも悪しくも北斎には強烈過ぎるくらいの自我と個性があった。

暁斎は、その器用さで描きまくったために、個性をなくしてしまった。

どんなものでも描けて、流派をも飛び超え、狩野派風にも、浮世絵風にも、鳥羽絵風の挿絵も描ける。

あまりにも描け過ぎるので、どれが本来の個性なのか分からなくなってしまった。

 

でも、ニ流だからと言って暁斎がきらいなわけではない。

これだけの膨大な数の作品が残っているのは、それだけ彼の絵を求める人々が多かったという印でもある。

 

【追加】

 

展示作品に「地獄極楽巡り」という連作があった。


これは暁斎の絵の版元(?)の娘が14歳という若さで早世し、その追悼として暁斎が描いたもの。

娘が阿弥陀如来の案内で地獄を巡り、やがて最後に極楽へ召されるという内容。

地獄を面白おかしく見物して回るという趣向になっている。

この作品の博物館側の解説に、「その道中の陽気なこと」とある。
さすが関西の博物館、係員の人も「ちりとてちん」を見ていたんだね。
この一文は「地獄八景」へのオマージュだろう。思わずにやりとしたのだった。


それと売店で売っていた、コンドルについての絵日記。

これは暁斎が建築家・コンドルを弟子に取った時の、コンドルのお稽古の様子を暁斎がイラストにしたもの。

それが絵日記風にひとつの本にまとめられて売っていた。(暁斎記念館で常時売っているらしい)

暁斎はこういうイラストみたいな、新聞の風刺絵みたいなのが得意で、沢山残っているようだ。



その本では、他の日本人のお弟子が畳の上に座って絵を練習しているのに、
コンドルは西洋人だからおっちん(正座)が出来ない。

だから、常にだらりと寝そべって、肘を立てて絵を描いている。

それを暁斎が、コンドルの絵の練習風景として描いているのが面白い。

暁斎もコンドルに行儀が悪い、ちゃんと座って絵を描け、とは言わなかったらしい。

コンドルが正座が出来ないので、大目に見ていたのだろう。

私はその本を立ち読みしただけで買っていないのだが(おいおい)、面白そうな本だった。

  

 

【さらに追加】17/1/31

暁斎は、着物の裏に、奇怪な図を描いていて、その着物が出品されていた。

表側、ではなく人が着ている時には決して見えない内側の、ひそやかな部分に描かれていた、何が描かれていたか
もう覚えがないが(秘儀図ではなかった。地獄図のようなものだったと思う)

そこに、暁斎の隠された闇のような一面を感じたものだった。

 

 
両方とも髑髏や骸骨がモチーフとなっている
ここにも暁斎の、死への奇怪な関心がうかがわれる

 

ことに右側の「地獄太夫と一休」という図では、骸骨が三味線を弾き、その上で一休が浮かれて踊っているという場面。

さまざまな小さな骸骨が太夫の周りを取り囲み、不吉な死のモチーフを扱っているのに、それを笑い飛ばしている
ようでもある。

それでも、どこかやはり奇怪な不気味さを感じずにはいられない。

骸骨のモチーフの多用は、まるで西洋の中世の「死の舞踏」かのようだ。

暁斎には下の地獄巡り図にも見られるように、このような、不気味な死への関心があったのかもしれないと、感じる。

何年も経つと、やはり絵の印象は、変わる。

 

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