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Jakuchu
若冲展

2007年5月13日〜6月3日

相国寺承天閣美術館

2007/6- 2008/10/25

アップ゚するのがすっかり遅くなってしまった若冲展。書き終えていたのだが…

2000年の京都国立博物館での若冲特集でブレイクしたと言われている伊藤若冲。

それを見損ねた私が、若冲が気になりだしてからかなり努力していろいろ実物を見て来たが、「動植綵絵」の実物はまったく見たことがなかったので、今回の30幅いっき掛けが初めてだ。

さまざまな図版や絵画集で見て、そのアニミズムというか、神経症的な細部へのこだわりは良く分かっていたので、私にとって特に目新しさとか、驚きというものはないのだけれども、いっきに掛けられた30幅と釈迦三尊の織り成す世界が、見る者にどのように迫って来るのかが、興味の対象だった、と言ってよいだろう。

結論から言うと、細部があって全体がある、ことは分かっているものの、けれども、だからこそ全体があるから細部もまた生き生きと呼吸し始める、のではないかと、動植綵絵に見惚れながら思った。


蓮池遊魚図
池に蓮の花、淡水魚が泳いでいる
池の上から底を覗いた表現なのか
若冲の蓮の葉はいつも腐蝕が進んでいる

 

第一室は、若冲が「動植綵絵」を描き上げて、相国寺に寄進した時の書状から、金閣寺の襖絵や、その関連のものが展示されていて、第二室が「動植綵絵」30幅と釈迦三尊の専用の部屋であった。

「動植綵絵」を見ながら、誰かが言っていたことだが、日光の東照宮などに見られるように、細部まで隈なくギトギトに飾り立てる文化は、一方で日本美術の中にちゃんと位置していたのではないか、と思うようになった。

若冲と同時代の曾我蕭白も異端のように言われているが、ああした悪趣味なまでの濃密さも、別に珍しいものではなかったのではないか。


菊花流水図
何となく琳派を思わせる流水の描き方
でも菊の花の浮遊感は何だろう
ふぐさしを連想した人もいる

 

浄土宗のお寺などへ行くと、本尊は真っ黒だったりはげていたりして滅茶苦茶きたないのに、その回りの厨子や須弥壇やら天上やらをごてごてと趣味の悪い金ぴかで飾り立てている。

スーパーナチュラルなものに対して、人間が恐れ、敬うものに対して、それをどんどんと飾り立て、より非日常を演出する。
それが、日本人の「神」のようなものに対する態度だったのではないだろうか。

若冲のそれがひとり抜きん出ていたわけではないだろう。

ただ若冲が特異だったのは、18世紀の画壇では、すでに例えば狩野派の襖絵が権力者の部屋を飾るものだったのに対して、若冲のそれは、純粋に神や仏を崇めるために描いたことだろう。

画家や仏師は、中世ではもともと神様の使いであり、神の世界を具現化する使徒であり、人々の知らない世界を知っている神に近い存在である。

けれども画家や仏師はまず職人であり、作品を作るのは己のためではなく、人々に神や仏の世界を仲立ちをするためだった。

若冲が中世や古代の作家と違うのは、作品におのれが入りすぎていることだろう。

そこが良い。

それこそが若冲という画家の特異性だ。

自然の事物を詳細に写生しているようでいながら、自分だけの、若冲しか知らない世界を作り上げてしまう。

意識的にではなく、いつの間にか、独自の世界が出現してしまう。

神だとか仏だとか、神に捧げたとか、そんなことを言う前にそのあまりにも濃密で、過剰な世界に眩暈してしまう。濃密過ぎて、げっぷが出てしまう。

過剰なものばかりで部屋が埋め尽されていると、そこが過剰過ぎて、神とは違う魔物でも出て来そうな異空間に変異しているのだ。

それこそが「動植綵絵」30幅が一室に会した意味だろうと思う。

西洋のお城の内部などもごてごてと隙間なく飾り立てたゴージャスな空間だが、それとはまた違う、しかしそれらに決して見劣りがしないギトギトした空間が日本にあったとは、驚き以外の何物でもない。


池辺群虫図

これはおたまじゃくしやカエルやクモやら昆虫が沢山
見飽きない。動植綵絵の中でも有名な絵だ
ひょうたんがおばけになってる

 

それから、同時に展示されていた金閣寺の襖絵もすごく良い。墨絵の単色で描かれた竹や葡萄の描写はどれだけ見ても見飽きない。

単色なのにカラフルで、狩野派のような遠慮深さがなく、ありていに言えばあざとい。でも見るものの想像力を喚起する絵だ。


「動植綵絵」の画像はアートボン様より

 

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