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Exhibition Preview

近世京都の狩野派展

京都文化博物館

2004年9月18日〜10月24日

05/10/29

日付を見ると、1年前の展覧会である。見た時に、感想を書き上げることが出来ず、ほったらかしにしていたのだ。けれども画像を準備し、半分以上書いてあったので、ボツにするのには忍びなくて、何とか書き上げてごまかし、アップすることに。

狩野派とは何か。

ついこの間、琳派の概要について理解したかな、どうかなというほどの今の私に、そのようなことを言われても分かるわけがない。
しかし上に掲げたチラシやポスターのデザインが素晴らしく素敵で、それに乗せられて、見たい、と思ってしまったのだった。

狩野派とは政府(幕府)の御用絵描きの総称だろう、と大雑把な理解をしておいて、見に行った。

フランスで言えばアカデミー。アカデミズムの語源。ダヴィッドとか、名前は忘れたが「アルカディアにもあり」という絵を描いた画家たちの系譜から始まり、規範となり、それがゆえに硬直していったあの画派と共通するものがあるのではないかという直感がある。ただし私の直感だから当てにならない。

昔、私の家に衝立があって、そこに絵が描かれていた。牡丹とか松だったか梅の木だったかの絵が描かれており、衝立は、穴をあけたり、鉛筆でいたずら書きをしたりする、私の娯楽対象でもあった。

その絵の、木の形が独特だった。炭をたらしたような木の幹がカクカクしていて、ヒステリックであった。
今から思うと、狩野派の草木描写を写した(真似した)ものだったのではないかと思う。

狩野派の作品を見て、何も知らなくても分かるのは、そういう「型」があることだ。
木ならこう描く、花ならこう描く。
手本があり、それに忠実に描く。

ただ、忠実に手本の絵を写すだけなら自然は見なくて良い。でもそうではない。型に当てはめながら、自分は見えている自然をどのように切り取り、どのように配置するか。
そこに、狩野派のテクニックがあり、修練がある。

…と言っていますがどうでしょう。

そして、狩野派のみならず、日本の絵が最も手本としたのが中国の図であるだろう。

 

この展覧会の惹句は、「光琳も応挙も蕭白も、みんなはじめは狩野派だった」というもの。

みんなはじめは、それなりの習作時代があった。というわけで、光琳の中国風の絵があった。

あの光琳にして、こんな絵を描いていたんだ、こんな時代があったんだ。真面目に写していたんだなと感心する。天才は一日にしてならず。意外にちゃんと、勉強もしていたのだ。

 

しかし私は狩野派どころか中国絵画となるとてんでまるでもう、駄目だ。あれらを見るとやはり私は日本人だと思う。
どこがいいのか分からないのだ。日本のワビやサビのつましいお茶漬け芸術がとたんに恋しくなる。

光琳の中国図は、お茶漬け風味である。光琳と言われなければスルーするような作品だけれど、中国風のヒトが配されているが、硬直していない。さすが光琳、とまでは思わないが、両者ともポースがのびのびしている。

中国図(正式には何というか知らない…)は、狩野派の重要な「型」のひとつだった。

「光琳も応挙も…」というわけで、応挙のスケッチも展示されていた。

私はまた、円山応挙が分からないのだ。どんなに考えても応挙が分からない。

しかし、花を描いた写生図、これがまた何とも、実にその、ものすごく上手で愛らしく美しく、精緻で見とれてしまうのだ。応挙、と言われなくても可憐な花の図にはうっとりするだろう。

常々、画家の技量は写生に出る、と生意気に思っていたりするのだが、まさに、絵画史に名を残すほどの画家であれば、そのスケッチが見事なのは自明なのだ、と思い知ったことであった。

バリバリの狩野派の可能探幽の花の写生も展示されていたが、もちろんこれも素晴らしい。

往々にして、どこそこの壁画(とか襖絵)などというきばった大作よりも、何気ない写生の方がその筆力が感じられて感じ入るものだ。
そう、写生には画家の息吹や、筆さばきが直接感じられるところがいいのだ。

  

私はまた、曽我蕭白が大の苦手だ。

まだ子供で、何も分からなかった時に見に行った展覧会で、カクカクした筆の、奇妙で恐ろしい絵が沢山飾ってあったのを何となく覚えている。それが多分、今思えば蕭白だったと思うのだ。

蕭白は気持ち悪く、脂ぎっていて、きつすぎる。

その蕭白のキツイ掛け軸。蕭白を分かるようになるには、私はまだまだ修行がいる。

鶴澤探山は鶴澤派の創始者で、鶴澤派というのは京都での狩野派の一派らしい。

 

狩野派は、江戸幕府開府で江戸へ行ってしまったが、京都でも描いていた画家がいたらしい。

狩野派を幕府の御用絵描き、と言ったが、お城とか、お寺の襖絵などを担当していたのが狩野派の画家たちなのだと思う。

京都にはまだまだお寺が沢山あった。その寺の襖を描くのに需要があったのだろう。

展示されているものには、京都の有名寺のものが沢山あった。妙心寺とか、あと、滋賀県のお寺のものもあった。

お寺の襖に絵を描くからには、画題も自ずと決まって来るのであろう。西洋の教会の壁画が、キリスト生誕図などであるのと同じに。

 


架空の鳥

狩野派のお得意は鶴である。

お得意というよりは、鶴が規範であった。鶴を執拗に描いた。
狩野派に入ったら、まず、鶴を描いてみなさいと言われたのかもしれない。それほど鶴が多い。

西洋のように、お坊さん(ブッダ)の生涯などというのはあまりない。その代わり鶴とか虎、花、木々、などである。つまり自然の事物だ。それが、日本なのであろう。

 

狩野派を鑑賞する、ということは、日本の絵画を見る、ということに他ならないだろう。

画家はまず、応挙にしても光琳にしても狩野派に学んだらしいが、狩野派自体もアカデミーであるからといって、その時の、その時代の動向を無視するわけには行かなかった。

世の中が琳派風に傾くと、狩野派にもそれに影響された作品が登場した。
ただ単に堅苦しい形式だけに留まらず、スポンサーの求めに応じた、臨機応変な変化を余儀なくされたようだ。

いつの時代にもその時代と人々の好みが、おのずと反映してしまうのだろう。

京都や滋賀の寺が、いろいろな物件を隠し持っている(?)ことを発見した展覧会でもあったが、狩野派が実はかなり多彩な展開をしていた、流動的な画風であることをも発見した展覧会であった。

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