特別展 ―アメリカより里帰り大図初公開―

伊能忠敬の日本地図展

2004年4月17日〜5月23日
神戸市立博物館

04/6/15(6/30訂正)

少し長いです。

 

戦前は修身の教科書に載るくらいに日本人の手本とされ、尊敬を集めた伊能忠敬。
彼の偉業は、形は変われど今もなお、日本人の心の中に共通のメンタリティとして生き続けているのではないだろうか。

私が改めて伊能忠敬の業績を知ったのは、NHKテレビの歴史特集だったと思う。
それまで何となく名前は知っていたが、それほどに興味を持っていたわけではなかった。
例によって歴史に無知のため、間宮林蔵などど混同していたかもしれない。

しかし、映像の力というものはすごい。
伊能忠敬の歩いた北海道や、作成した地図や、そのための創意工夫などをドキュメンタリーで見ているうちに、何とすごいことをした人なのかと目を見開かされたのだ。
そして、そのテレビを見て以来、私は伊能忠敬にすっかり夢中になってしまったのだった。

 


伊能のおじちゃん(^_^;) ぼやっとしていてよく見えない…

 

伊能忠敬が、徒歩で日本全国を巡って精緻な日本地図を作り上げた人だということは、私以外のおよその日本人が知っていたことと思う。
あしかけ3737日。17年。
その測量距離、のべ39.000キロメートル。

それだけをかけて日本全国を踏破し、当時としてこれ以上ないほどの地図を作り上げた(明治時代においてまで利用された)、それだけでもすごいと思うのに、忠敬の本当のすごさはそれだけではない。

作り上げた地図が、一つの作品としてきわめて美しいこと。ここに伊能忠敬の業績のすごさがあると私は思う。
ここに日本人の美意識の最もすぐれた部分を見る。

 

現在私たちが目にする日本地図は正確無比で、どこにも落ち度がない。
私たちは日本地図を見慣れており、私たちの頭の中には、いつの間にか、無意識のうちにくっきりと日本の形が刻み込まれている。
私たちにはお馴染みすぎて、見ても何の感慨も及ぼさないほど、日本地図は浸透している。

伊能忠敬の地図は、現在の地図と比べてそこがまったく違う。

正確さでは、伊能図は現代のものには及ばないだろう。
(天測で、緯度は測れたが、経度の観測には成功しなかったという。なので伊能図の北海道はかなり東偏しているという。「伊能忠敬の歩いた日本」

けれども忠敬の作った地図を見るとき、その海岸線のあまりにも精緻で美しいことに驚く。

それと共に、現在私たちのなじんでいる日本地図が、伊能図(という風に呼ばれる)と比べると、なんと無味乾燥でつまらない地図か、と、感じる。

そう感じるとき、伊能図の偉大さが改めて心に染みるのである。

 


伊能中図 奥羽 イヴ・ペイレ氏所蔵

 

江戸時代まで、暦の作成は、朝廷の独占事業だったらしい。京都の土御門家(つちみかどけ)という家が、代々暦づくりに携わっていたという。
土御門家は陰陽道の家系だったという。

幕府が土御門家から暦づくりの権利をもらったが(?)、作成した暦に誤りが目立ちはじめ、寛政期に改暦が行なわれることになった。
この改暦事業に取り組んだのが、幕府天文方の、高橋至時であった。伊能忠敬の師である。

暦というのは、昔は陰陽道の術師が作るものだったらしい。
陰陽道は、平安時代の科学であったのだから、まあ当然といえば当然かもしれない。
しかし、陰陽道は秘術で、公開されないものである。

暦の作り方にしても、陰陽道を継ぐ家は、昔の秘法をただ代々伝授するだけで、新たに月や星や恒星を計測したりすることなどしなかったのだろう。
それで誤差が生じて来た。

 

そのころ、ロシアの南下が懸念されていた。幕府はこれに脅威を感じて、北方に関心を向け、蝦夷を日本の領土としてきちんと整備する必要に迫られていた。

伊能忠敬が蝦夷地測量に出た経緯は「伊能忠敬の歩いた日本」のレビューに書いたとおりだけれども、幕府側としては、このような必要があり、それで幕府天文方・高橋至時の、蝦夷地測量の要請を許可したものであった。

 

地図を作るという名目で、蝦夷を測量するに際して、伊能忠敬は鬼のような几帳面さを発揮して精緻な測量を行なった。

忠敬が行なった測量方法は、道線法交会法*という方法の組み合せであり、そこに天体観測を導入して正確を期したということである。

天体観測は、暦の作成のみならず、地球の緯度・経度を測るのに欠かせない。

だから幕府天文方が改暦と、地図作成の任務を負っていたのだ。
ということは、数学に明るい人なら自明のことなのだろうけれど、アホな私にはなかなか理解出来ないことなのだった。

 

*始め、距離の計測は、歩測で、歩数を数えて、それに歩幅をかけるという、ものすごく簡単な方法だった。

*道線法は、縄(間縄。または鉄鎖)を張ってその直線距離を測り、角に来ると梵天という目印を立てて、その角度を測る。

*交会法は、各屈折点(角)から、近くにある寺院の屋根などの目標物を決めて、その方位を測った。距離の測り違いを検証するためだったという。
富士山なども目標とされたので、いろんな場所から富士山の方位を測っている。

*これ以上の説明は、むつかしくて不能。

 


大図 明石・淡路

 

今回、神戸市立博物館で公開された伊能図は、2001年に発見されたばかりの、アメリカの図書館が所蔵する大図の里帰りを中心にしたものだ。

 

伊能図は、大図・中図・小図の3種類が作られている。

小図は3枚、中図は8枚、大図は214枚で日本全国をカバーする。

それぞれ大きさは一枚が畳1/3から半畳くらいかと思う。
だから大図で日本全国を広げようとすると、ものすごく広い土地が必要になる。
江戸城の大広間でも、大図で日本全国を広げることは出来なかったという。

大図の縮尺は1/36.000ということである(1里が3寸6分)。
中図は1/216.000、小図は1/432.000。

 

アメリカで発見されたのは大図207枚である。

といっても、発見されたのは明治時代の写しであった。来歴は不明だが、中図・小図とも模写自体はさかんに行なわれたようだ。

日本に残っている伊能図も、原本はないものもある。各大名が、複製を求めたため、各藩に伊能図の写しが残っていることがあったようだ。

今回のものは写しとはいえ、原本に近いらしく精緻な出来で、日本では従来は大図214枚中、60枚しか残っていなかったのに、いっきに207枚もの大図が発見されたのは大変な収穫で、大図のほぼ全容を知ることが出来るようになったという。

今回の里帰りは、そのうち8枚。近畿と四国の一部を大図で見ることが出来た。

 

アメリカの大図はデジタル保存され、デジタル処理をされて複製が作られ、博物館のエントランスの床を飾っていた。
近畿と四国を中心にした、巨大な大図の復元である。

ここを通る人は、いつの間にか誰もが這いつくばって、地図に見入っている。
私もさっと通り過ぎようとして、ちらりと床に目を落したら、それきり釘づけになって、目が離せない。

誰もが自分の住んでいる所を探す。

大図には214枚のうち、欠落がまだ7ヶ所ある。
その数少ない欠落の内のひとつが、山城、すなわち京都であった。

中図・小図にはもちろん欠落はないので、山城もちゃんと記載されているのだが、大図には京都がない。とても言いようがないほど悲しい。

その代わり、琵琶湖があった。琵琶湖の周囲に、びっしりと細かい楷書で村の名前が書き連ねられてある。
村の名前が琵琶湖のまわりを取り囲んでいる。それがそのまま、地図の彩りとなり、デザインとなっている。美しい。
実に見事なデザイン感覚なのだ。

こんなことで驚いていては、先に進めない。

***

 

1階には、フランスのイヴ・ペイレ氏の所蔵する中図4枚も展示されていた。

昨年、修復のため里帰りしたことで話題になったあの図だ。修復が済んで、飾られていたのだ。
これは京都で修復作業が行なわれたことが、新聞でも報じられていた。

この中図はコンパクトながら、色が鮮やかでとてもキュートだ。ほどよい大きさで見やすい。

まず目につくのは、東西南北を示す方角マーク(丸い太陽のような形)が描かれていることで、もちろん方角を示すための便宜としてつけられたものなのだろうけれど、それ自体がもうカラフルで美しい。

日本画が落款を押して、それを絵の一部としているように、方角を示すマークもデザインアクセントとして、地図の重要な一部なのだ。何ともいえないすぐれた美的感覚だ。

地図じたいの色はセピア調で渋い。山並みが描き込まれ、海岸線の外がわは、海を示す青色でほんのり縁取られていて、日本が浮き出るように、立体的に描かれている。
そして海岸線にはまた、びっしりと村々の名前が書き込まれている。

今日の地図と違うのは、この名前の書き方が、横になったり逆になったりしていることだろう。地図の上方は字が逆さまに書いてある。

これは絶対に、地図の見やすさよりも、地図の絵画的な美しさを優先してあるからだ、と私は信じる。
楷書で書き込まれた村々の名前の細かい字は、字の配置に気が使われていることといい、ほとんどデザインと呼べるような効果を地図にもたらしている。

 


中図 中国・四国 イヴ・ペイレ氏所蔵

 

階段を上がっていきなり3階まで行く。

そこには伊能忠敬以前の日本地図などが展示されている。

北海道がなかったり、あってもへんてこな形だったり、それまでの地図作成の苦労が偲ばれる。
しかし存外、現在私たちの知る日本に近い形をしているのが、かえって驚く。
少なくとも、江戸時代の日本人は、自分たちの住む国の形を、ある程度は把握していたようだ。

江戸時代の人は、地球が丸いことさえ知らなかっただろう、などと思っていたのだが、とんでもないのだった。当時の世界地図(もちろん漢字の)も展示されていたが、ちゃんとした、円を二つ組んだ、正確な世界地図なのだ。

*

伊能忠敬が測量に使った各種の道具が、実物・複製を含めて展示されていた。

距離を測る縄や鎖(間縄・けんなわ、鉄鎖・てっさ、という)、目印にたてておく梵天(ぼんてん・まといのようなもの)、わんからしんという、磁石(下に杖のような棒の付いた磁石で、方位を測る。常に水平に保つことが出来る工夫がされていた)、そして伊能観測の象徴のような象限儀(しょうげんぎ・天体観測の時に使う。恒星の高度を測って緯度を算出する。分度器を巨大にして半分にしたような形)など。

科学的な測定機を使って、羽織袴に帯刀したおさむらいさんたちが、一生懸命星を観察している所を想像すると、思わず微笑が浮かぶ。

そのような、観測の様子を描いた図もいくつか展示されているのだ。

船を何隻も出して海岸線を観測しているようす、人足が一列に並んでひもを引いているようす。中には疲れたのか、ごろんと横に寝転んで、きせるをふかせている人もいる。

測量にかり出されている人たちが、労役という感じでなく、楽しげにしているのが救いである。

忠敬らしき人が弟子たちと野天で天体観測をしている図には、その前に火鉢が置かれていたり、土瓶でお茶を沸かし、茶菓子も用意されていたり、書き物机に墨とそろばんが用意されていたりする。

恒星の高度を計算するにもそろばんだったのか…と、そのミスマッチが微笑ましく思える。

もちろん当人たちは必死だっただろう。お茶をすすりながらも…。

 


大図 何だかよく分からないが、大阪

2階へ降りて、いよいよ大図と対面した。

神戸での開催ということでなのか、大図は関西方面の図が中心だ。

地図というのは縮尺が大きくなるほど詳細になり、現代地図でも見るのはある程度楽しい。

大図には、そういう楽しさがある。どれだけ見ても見飽きないのだ。

大図の色はやはり渋い。殆ど彩色されていないように見えるほど控えめで、山並みが描かれ、やはり少しレリーフになるように、海岸線が浮き出ている。
黒の、乱れのない楷書の文字で村の名前が描き込まれているのが絶妙なアクセントで、神社や、港のマークが赤く記されている。観測点の☆印も、踏襲されている。

奈良(大和)の地図では、東大寺や二月堂の甍(いらか)や五重塔など描き込まれている。とてもかわいらしい。

当時の地図なのだから、ごく当然だろうけれど。

忠敬は、各寺社に熱心に参詣したという。門前まで測量をしながら進み、それから中に入って参拝したと。
奈良では物見遊山で楽しく大和古寺を見学したらしい。

大阪(大坂)には天満橋や、何とか神社が。

殿さまの居城も描き込まれている。

四国では、松平阿波守居城*(6/29)、などと書かれ、天守閣のついたお城がかわいく描かれている。

居城を描くことで、そこが、徳川家のどの家のテリトリーかということが分かる。当たり前のことかもしれないが、なるほどと思った。

 

忠敬は、測量には浮世絵師を必ず同行させたという。

測量するそばから即地図が作成されたわけではないが、測量した周辺を絵に描いておいて、あとからその絵を参考に、地図に描き入れさせたのだそうだ。

そういう絵師の描いた風景図も展示されていた。

何の変哲もない山の連なりだったが、それだけでも、どういうわけかちゃんと風景の絵になっている。

忠敬は、地図を作成するに当たって、無機的に測量した成果を描き込むのではなく、意識して絵画的に仕上げることを希望した。

そこがやはり慧眼だと思う。

科学的な観測の結果は、芸術なのだ。芸術となるべきなのだ。
それが、江戸時代の日本人の美意識ではなかっただろうか。

大図を目の前にして、これがまぎれもなく科学的な観測によるものでありながら、どのような美しい芸術にも負けない、引けをとらない、世の中で最も美しいもののひとつであるという確認をしながらそう思った。

 

地図は、当然のことながら紙に描かれている。

4つに折られて折り線がついていたり、虫に食われていたりするものもあった。
展示するものではない、使うものだったからだ。

無残な状態のものが幾つもあった。
これらが、額縁に入れて、飾っておくものではなかったことが残念でならない。

紙を立てて展示するのにも苦労があったようだ。

四方を画鋲で止めるわけにもいかない。壁に飾っているうちに垂れて来ることもあるだろう。

普段の展覧会では、考えつかないことに気を使わなくてはならなかったのではないだろうか。

 

そうして、最後に、数多くの日記・方位記・暦書・日蝕の日を書き留めた書き付けなどが展示されていた。

それは、驚くべきものだった。

膨大な数の(何十冊もある)方位記などには、ただひたすら数字が書き連ねてある。

丁寧な墨の字で、楷書の漢数字で、何日に何度、何日に何度、と、ひたすら書いてある。

場所と測量した時間、測量した数値。

高橋影保(高橋至時の孫)による、日蝕を測量したデータを書いた記録も展示されていた。

ただひたすら、これも数字の羅列である。

実際、測量というのはこのように、ただただ数字との戦いであり、数字を記録してゆくことだったのだろう。
この数字の羅列が、どのようにしてあの絵画に、あのような作品として出力されるのだろうか。私には、もはや想像もつかない。

数字から芸術への転換。伊能忠敬の業績は、このことに尽きるのではないだろうか。


小図 西日本

 

神戸市立博物館には行ったことがなかったので、行きつけるかどうか、自信がなかった。

博物館のHPにアクセスしたら、各三宮駅(JR・阪急・阪神・地下鉄)から博物館までの道筋が説明してあった。
普通なら地図が示してあるのに、ここは写真だった。駅で電車から降りて、町へ出て、通りを歩いて博物館に辿りつくまでを、写真で念入りに説明してあるのだ。笑えるが親切なHPだ。

そのおかげで無事、博物館まで辿りつけた。

その日は雨で、足元が悪かった。
博物館の入り口で傘をたたもうとしていたら、見知らぬ男の人が近づいて来て、ぬっと券を差し出した。
気持ちが悪いので、今、チケットを買おうとしていた所ですと言うと、その人は、いやこれは招待券で、余っているので良かったら使って下さい、と言って、自分はすみやかに去って行った。

その見知らぬおじさんのおかげで、私は展覧会に、ただで入れたのだった。

滅多にないことだけれど、時としてハプニングがあるものだ。おじさんに感謝しつつ、展覧会を楽しませてもらった。

 

見終わった後、グッズショップをうろついていたら、伊能図の複製を販売するという宣伝パンフレットが置いてあった。
大・中・小、さまざまな伊能図が複製されているようだ。

今回の、アメリカで発見された大図の完全復元の207枚をすべて揃えた値段は、865万円。
揃えたら、さぞかしリッチな気分に浸れるだろう。

 

こちらも、ぜひ読んで下さい♪


参考 「伊能忠敬の日本地図展」・パンフレット

    博物館だより 神戸市立博物館

    伊能忠敬の地図を読む

    伊能忠敬の歩いた日本

*掲載した画像は、博物館で配布されていたチラシの図をスキャナーで取り込み、縮小したものです。
本物とは色も雰囲気も違うことをお断りします。


松平阿波守について

 伊能大図の四国の図を見た時、松平阿波守居城、と書かれていたような気がしていたのだが、調べてみると、松平氏は讃岐守であることが分かったので、この項を書いた最初に、松平讃岐守居城、と書いておいたのだが、改めて伊能大図を確かめてみると、確かに「松平阿波守居城」と書き込まれていたことが判明した。
伊能忠敬が測量した時期(1800年ころ)は、阿波は松平氏がおさめていたのかもしれない。よく分からないのだが、「阿波守」と訂正しておいた。 
04/6/30

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