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Exhibition Preview

若冲と琳派
琳派[ 俵屋宗達

2005921日〜103日 京都高島屋(左)
2005916日〜1218日 細見美術館(右)

05/10/29

京都高島屋で行われた展示会は、全国で巡回(?)公開された若冲展の里帰り展示のようで、若冲と、鈴木其一や、酒井抱一などの作品が展示されたもの。

この京都高島屋の展覧会のもとになった作品を所蔵する、細見美術館ではその時期、宗達を中心とした琳派の作品を展示していた。

ともに、琳派ということで関連がありそうなので、一まとめに扱おう。

 

まず京都高島屋での展覧会は、これまでも私が細見美術館や、京都博物館で見た展覧会での展示品と重なるものが多く、おさらいという感じだった。

「伊年」という、琳派作品に多くつけられている印のついた、カラフルで陶酔的な「四季草花図」の屏風から始まり、若冲の繊細で美しい彩色の「雪中雄鶏図」、有名な「糸瓜群虫図」、墨絵の有名な鶏の屏風、子犬に箒の図など、そして琳派を形成する鈴木其一の鵞鳥の屏風など、琳派の代表作が並ぶ(鵞鳥の後姿が可愛い)。

私は鈴木基一と酒井抱一の区別がどうもつかないのだが、時代が下ると、琳派はより華麗に、甘く展開されて行ったようだ。

注目は、同時に展示されていた七宝品の数々だろう。

これは、細見美術館の展示の時にも並行展示されていたものだが、(ふすまやたんすの)引き手や、釘隠しを七宝で作ったものである。

こんな小さなものにまで、ほとんど注視されることのないものにまで細かく細工を施し、美しく飾り立てる日本人の美意識に、感嘆せずにはいられない。

小さなものにまで、隅々にまで神経を行きとどかせていた江戸時代人の心を感じた。

 

さて、その細見美術館で開かれていたのが、俵屋宗達の特集。

展示替えが何回かあり、注意していなければ目当てのものを見られないが、宗達の筆になる国宝や重要文化財をじかに見ることが出来る、大変よい機会だった。

少し日記にも書いたのだが、何といっても、宗達が下絵を描き、その上に本阿弥光悦が書を書いた「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(部分)の展示が圧巻だった。

たらし込み技法で牛を描いた掛け軸なども展示されていたのだが、何しろ古いもので、変色が激しく、ただキタナイ、という感じなのだ(すみません。重文なのに)。

キタナイといえば、鶴下絵だって変色しているし、色は地味だし、キタナイと言えないこともないのだ。

けれども、何かもう、圧倒的な存在感というか、ものすごい引力があって、いつまで経っても見飽きないし、家へ持って帰ってゆっくりと心置きなく見てみたい、自分のものにしたい、全部欲しい、そんな気持にさせてしまう、呪縛力のある大変な作品なのだった。

 

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を最初に見たのは美術週刊誌で、その時は鶴の絵がどす黒い灰色に見え、キタナイとしか思えなかった(銀泥で、銀が塗られているのだが印刷ではそれが上手く示されていない)。
その鶴の上に光悦の書が書かれているが、鶴と重なって見苦しい。

そんな印象しかなかった「鶴下絵」が、実物を見るとどうだろう。
これは描かれたことが奇跡としか思えないような、あまりにも見事ですごすぎて、舌を巻くような出来で、とにかくその場から離れがたかったのであった。

巻物であるから、天地は大きくない。そして、とても長いので全体は展示出来ていなかった。

だが、そこに描かれている鶴の図は、今まさに飛び立とうとするところから、群れて上空をゆうゆうと飛んでいるところ、水辺に降り立ち、水をついばんでいるところ、さまざまな鶴の生態を生き生きと描いているその宗達の筆致が、軽やかで、それほど深く考え、長く時間をかけたとは思えない。
さらっと、短時間のうちにあっさり描いたような軽味が、いかにも鶴が楽しげに群れている、何とも言えない味を出している。

横長の画面に時間の経過が示される。これは、西洋の絵画にはまったくない概念だ。

これを一連の巻物の上に、ひとつの作品として成立させるというのは、どんな計算された才能なのだろうかと、もう、それだけで呆気にとられ、賞賛したくなるのである。

しかも、宗達はあまり考えもせずに描いているかのようだ。この軽味のすごさ。

そして、「鶴下絵」は、さらにそこに、光悦の書がかぶさるのである。

この光悦の書ときたら。

宗達の下絵に無造作に重ねられた殴り書きのような書にも見えるのだが、鶴の飛翔に合わせて、上になり、下になって黒々とした文字が綴られてゆく。

それは見事な二重奏であり絶妙なコラボレーションである。

画の空白部分に絶妙に配置された文字。その文字を何と読むのか分からないのに、画と書のアンサンブルに、つくづくと見る幸福を感じることが出来るのだ。

森村泰昌は、この天才二人のコラボを、ジャズのインプロビゼーションに例えているが、確かにジャズの音符は読めなくても、聞き手には二人の丁丁発止のやり取りの妙を楽しむことが出来る。
そういうことではないだろうか。

書き手は二人ともこのやり取りを楽しんでおり、そして見る側もそれを心から楽しむことが出来る。
そんな奇跡の作品が「鶴下絵」だと言えるだろう。

 

さて、細見美術館では、同時に「唐長」の版木と版下絵が展示されていた。

それは、琳派の絵を下絵に文様としてデザインされ、着物の柄に使われたもので、版画のような版木があり、それを着物地に染めたもの。

何だか説明がとてつもなく下手くそですが、ちょうどたしかNHK新書で「唐長」という本が出ていたので、展示を見てこのことかと思ったのだった。

現在では何代目かがこの手法を継いでおり、京都で唯一と言うことである。

琳派といえば着物の文様というのは、この「唐長」が琳派文様を扱ったからだろう。

琳派が現代でも立派に通用する文様であり商品であることを教えてくれる、貴重な展示だった。

伊藤若冲

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