光文社新書
字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ 2007年 太田直子 光文社 07/5 |
映画を鑑賞する際の、日本語の字幕翻訳には字数制限という厳しい決まりがある。
いきおい、翻訳する人は日本語に神経質にならざるを得ない。
そんなわけで、字幕翻訳を手がけて長年たつ著者が、字幕翻訳の苦労と日本語についてのあれこれを語った新書である。
ざっくばらんで、勢いの良い書きっぷりなので楽しく読め、興味深い記述が満載。けれども、日本語の将来を思うと鬱々となって来ることもしばしばだ。
方向としては二つあり、ひとつは字幕に対すること、もうひとつは我々が日常使う日本語そのものについてである。
字幕を作る際の決まりの数々、字数や禁止用語、映画興業会社の意向との戦いなど、そして字幕はあくまで映画を見るさいの補助なので、多少の意訳は大目に見てほしいというせつなる願いなど、エピソードは面白い。
いや面白いだけでなく考えさせられる。
昔、アニエス・ベーをアグネス・ビーと訳して大恥を掻いたという話が出て来るが、こういう人類の共通認識をどこまで共有出来るかということが問題にされている。
アニエス・ベーを知っていてもスターリンの顔を知っている人はいるのか。リンカーンの演説を知っている人はいるか。
アメリカではキング牧師の演説は誰しも知っているが、日本人で知る人はいるか。こういう、国対国の知識のギャップも字幕に関わって来る。
自分がたまたま詳しいジャンルについて、他人の無知を笑う人が多すぎると著者は言う。
「えー、そんなことも知らないの?信じらんなーい」
逆に、ここが分からないから、もっと分かりやすくしてくれと言われることがとても多いとも書いている。
著者はそれくらい知っておけ、と憤るのである。
そして著者は昨今のメールの流行や、インターネットでのブログや掲示板のブームにも言及する。
いっけん若者が書くことに興味を持ち始めたかのようなこれらのブームだが、実はメールは書くのではなく、しゃべる代わりに打っているだけ、読み手への配慮はいっさいない、と。
仲間内だけのいびつな言葉遣いでつるみ、考えや立場の違う人たちとコミュニケーションしようとはしない。
掲示板で誰かが意見して来ると
格好のいじめ対象が現れたとばかりに、罵倒し冷笑し袋だたきにする。
要するに、幼稚なのだ。
と切り捨てているのだがさて。
まあ、そういうことを経験したことのある人は、この本を読むときっと溜飲が下がるはず。