知恵の森文庫
名画読本 日本画編 どう味わうか 赤瀬川原平 2005年 光文社 05/12/20 |
これの先に西洋画編があって、それを買おうと思っていたが、取り上げられている画家が私の好みではなかったので買わなかった。
こちらの日本画編が次に出たので、これは早速買った。赤瀬川原平は、いまや日本画ウォッチャーとしてもユニークな地位を築いている。その原点がこの本だといえるだろう。
ここに書かれている赤瀬川氏の日本画の見方はとてもスリリングだ。目からウロコが何枚も落ちると思う。
そして、読んでいると、そうなんだよ、そうなんだよという相槌と、ああ、そうだったか、そうだったかという納得が交互に訪れて来て、溜飲が下がりっぱなしになる。
私などは少し悔しい。
ああそういう見方もあったか、と思い、それは、自分がその絵を実際に見た時にそういう見方をするはずだったのに、という先を越された悔しさというか、そして、それは気がつかなかった、もう少し見れば自分もそう思ったのに、という悔しさとが半々だ。
赤瀬川原平は、しかし、何もユニークな見方や奇抜な発想をしているわけではない。
ただ原点の絵を、丁寧に虚心で見ているだけなのだ。
その見方は、正しく彼が路上観察や、トマソンで行って来た観察と同じ目線なのだ。
それは子供の目線であり、カメラが焦点を合わせて対象を写すのと同じだ。赤瀬川氏の目線は、カメラのレンズそのものなのだ。
まずそこに何が描いてあるかをじっくり、隅々まで観察する。画家が何を描こうとしたかよりも、絵に描かれている事物がどのように描かれていて何を表わし、どのように配置されているかなどを考えてゆく。
赤瀬川氏がえらいと思うのは、その事物の選び方だ。
絵の中に描かれているもので、これ、というものに焦点を絞って、そこから持論を展開してゆく。その、焦点の絞り方がプロだと思う。さすがカメラマンだ。というか、彼自身がカメラのレンズだからだ。
絵の中の、本当にこれしかない、というものをクローズアップする。
よくテレビで何人かのゲストが司会と喋る時、「これこれ」というテーマの「れ」だけにこだわってそこに話を広げる人がいて、肝心の「これこれ」がおざなりになってしまうことがあるが、赤瀬川氏にはそのような隔靴掻痒がない。
ここ、というポイントを間違えることなく絞り込む。痒いところを存分に掻いてくれるのだ。
取り上げられているのは北斎、広重、歌麿、写楽などの浮世絵、雪舟、等伯、光琳、宗達、蕪村、応挙の日本画である。
浮世絵での飛ばしっぷりはすごい。ことごとくストライク三振で打ち取っていく。あわや完全試合かと思った。
けれども、私の好きな光琳や宗達ではその投球が少しもたつく。
宗達は実物を見ていないのではないかという気がした。
だから、少し記述に迫力がない。ツーベースヒットを打たれてしまったが、走者が無理して三塁まで行ったのでようやくアウトになったという感じだ。それがちょっと惜しかった。