Book Maniacs

角川文庫

ダ・ヴィンチ・コード

ダン・ブラウン

2006年

角川書店

06/5/31

この本は、もともとネットで美術ファンとか、美術に詳しい人が面白いと言っているのを読んで、それで興味を持ったのだった。
文庫本になったので買ったが、それでも大きい字での3分冊とは、書店も稼げる時に稼ごうという魂胆か。

私はもともと新書を除いてベストセラーは読まない、という主義だったが、レオナルドが好きなので、読んでおきたいという思いもあった。
しかし、タイトルからして、レオナルドの絵の謎が中心なのだろうと想像していたのだが、レオナルドに関しては傍証のようなもので、ほんの少ししか登場しなかった。

 

ただ美術をかなり好きな人が良いと言っているのだから、てっきり学術的にしっかりとした裏づけがあって、考証も綿密なもので、うるさい美術ファンをも納得させる内容なのだろうというような先入観があった。

梅原猛氏の「隠された十字架」くらいの実証的な書物なのだろうと思っていたわけだ。
最低でも「黒死館殺人事件」のような華麗なディレッタンティズムが堪能できるのではないかと。または読んでいないが「薔薇の名前」とか。
要するに、そういう感じの知的興奮をもたらすタイプの書物、と思っていた。

ところが読んでみたら、「猿丸幻視行」よりも単純(?)な謎ときで、どちらかというとインディ・ジョーンズというよりは、中学生向きのロールプレイング・ゲームのようなもの。ゲームの好きな人たちには面白いだろう。

 

この本が売れたのは、まず誰にでもすいすい読めてとっつきやすく、ストレスがないこと、だから普段本を読まない人でも簡単に読めること、そしてイエスが結婚し、子孫がいた、という驚愕の「事実」が書かれていることが、話題を呼んだからだと思う。

このような、日本人には理解しにくいキリスト教の謎に関する本が日本人にも受けたのは、もともと日本人がノストラダムスのような、うさんくさい、スキャンダラスな説が大好きだからで、また日本人にキリスト教の素養がなく、関係がないからこそ、スキャンダルを面白がれる、ということもあった。

話の内容が醜聞であればあるほど、突飛で、問題視されるものであればあるほどよけいに大衆は喜ぶものだ。
また絶対的な権威を持ち、誰もが知る組織の「闇」の部分を暴く、という構図は庶民を喜ばせる。
大衆のそうした意識を上手に汲み取り、大胆にストーリー展開に含めたことが、この本の勝因だろう。

書き手は、書く対象が(「闇を暴く」相手が)巨大であり、全世界的に知名度があればあるほど、その影響力も大きく、話題になるはずだとも分かっていたのではないだろうか。

 

ただ、薀蓄を期待したら期待外れになる。

書かれていることはどれもこれも薀蓄というには浅すぎ、作者の「新説」に都合のいいように取捨選択されていて、公平さがない。
例えばテンプル騎士団にしても聖書の解釈にしても、薀蓄があまりにも大雑把で乱暴すぎて、期待している人には興醒めだ。
結局、話の根幹になる「事実」には説得力がなく、不満を持たざるを得ない。

まあ、たいてい「新説」を出して来る場合、これまでの資料の都合のいい部分だけを取り出す、という手法が殆どではあるのだが、この「ダ・ヴィンチ・コード」の場合は、かなり素人の者が読んでもどうかと思うようなザツな書き方である。

レオナルドの例の「最後の晩餐」のマグダラのマリアにしても、「女性だわ」と登場人物に言わせただけで終わりなのにびっくりした。
女性であることの証拠をあらゆる方向から検討する、ことがまったくされていない。

-------多少ネタバレあり-----

例えば、イエスの血脈がメロヴィング王朝に受け継がれていた、という主張は、何かの本からの孫引きか、いただきなのだろうが、その実証がいっさいされていなくて、ただ「受け継がれていた」と書いてあるだけ。
本来ならその証拠を、くどいくらいに突きつけなくては説得力がまるで出ないのだが…。

この本では、こんな感じで、作者がただ書いただけ、言いっぱなしで実証がろくにされていないことが多すぎる。

むろん、「キリストに子孫がいた」ことを証明することがこの本の目的なのではなく、スピーディーな展開の、暗号の謎ときを楽しむべきものだからであろう。

だがその暗号もなかなか苦しいのだ。

------以下、ネタバレあり-----

なぜ、「女性性」を崇める教団にいる者が、聖書における女性の愚かさの象徴である言葉を暗号に使うのだろうか。あまりにもお粗末なような気がしたのだが?…

 

聖書は人の手になるもので、それが事実を書いているとは限らない、という作中の意見はまっとうだと思う。この主張には同調するけれども、では、なぜ、新約聖書の中で、もっとも信憑性のない「イエスはダビデの末裔である」という主張を、まったく批判もせず、そのまま採用しているのだろうか。

結局、これは、子孫だとか、末裔とか、血脈だとか、血筋だとかいうものに異様に思い入れのある者の書いたファンタジーであろう。

もともと、この物語はファンタジーなのだからこの結論は当然なのだが。
血脈には無関係な、歴史を持たないアメリカ人だからこそ、かえって血筋というものに憧れ、このような血脈オタになるのではないか。

 

ただ、フィクションをフィクションとして楽しめない者があれこれ言うなとか、歴史は不確かなもので、新発見の都度書きかえられる(べき)ものだという論調には賛成であるものの、「超古代」とか「ムー」系の書物というものは、「これはノンフィクションである」と必要以上に強調するし、そのように偽装する。

そういう人たちの実証の根拠があまりにも乏しいものであって、論理的にも飛躍しすぎていて、「知的興奮」には程遠いことが私には不満なのだ。

このような、少なく、貧弱な根拠をタテにして歴史は変えられるべき…、とあれこれ言って欲しくないように思う。
要するに、もっと綿密な実証と緻密な論理で説を展開して欲しいのだ。

Art Essay 「ダ・ヴィンチ・コード」はでたらめだ 「ダ・ヴィンチ・コード」と聖ヨハネ

Art10 レオナルド「最後の晩餐」


★この文の中に1ヶ所反証をあげられる箇所がある。指摘すれば50点。

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