Book Maniacs

新潮文庫

京都スタイル

甘里君香

新潮社

2005年

05/9/12

ちょうどこの本を買った時、京都新聞の「現代のことば」の欄に秋元康の文が掲載されていた。

自分の知人で、老後には京都に住みたいという人間がとても多い、老後を待たず既に京都に住んでいる者もいる、もちろん自分も老後には京都に住みたい、というようなことを書いていた。

そう言えば確か糸井重里も月の半分くらい京都にいるというようなことを聞いたことがある。

なぜ、東京の人間は京都に住みたがるのだろうか。

この著者も東京に生まれ、東京に育ったようだが、ちょっとした理由から京都に住み始め、そこで、あまりにも驚き、カルチャーショックを受け、その異次元体験(?)をこうして書き綴ったものらしい。

 

東京は、競争社会である。

そこは、つねに勝ち、負けという相対的価値で人間が評価される。

自分の意見や、自分の価値よりも、人がどう思うか、人が自分をどう評価しているか、が、規準となる。
その結果、誰か自分ではない他人が良いと思った、既に価値の決まった物が歓迎され、既存の価値基準だけに頼ることになる。

シャネルがいいと聞かされれば人はみなそれに群がる。次はヴィトンだといえば、人はみなそれに流れる。

東京に住む者は、いつか他者の決めた価値にしか頼ることの出来ない自分に自信をなくし、疲れ果て、自己を失ってしまう。

そのことに気づいた東京の人間が、京都を求めるのではないか、と、私は思う。

京都というのは、このような東京における価値体系とはまったく逆の、180度違う価値基準によって人々が成り立っている。

東京の人々にとって、京都とは、東京の対極にある価値のシンボル、なのだと思う。

 

この著者も、京都に住むようになっていちいち驚いたようだ。

彼女が付き合う相手と言えば、やっぱり同じ年代の、30代から40代の主婦だろう。
70や80の京都のおばあさんとタメで付き合っているとは考えにくい(ないことはないだろうけれど)。

そういう、京都の30代くらいの若い、普通の主婦の考えに、著者はいちいち驚いているのだ。
京都の人間は、たとえ30代の若さであろうと、よそものを驚かすのだ。

驚いているのは彼女だけではないだろう。違う府県から来た人たちは一様に京都に住むようになって驚いていると推測する。

それほど京都は特殊なのらしい。

もちろん観光だけでは驚かないだろう。住んで初めて驚く。

何に驚くかと言えば、やはり「ケチ」ということだろう。

著者は、京都の主婦の前で、黒くなってしまった台所のスポンジを捨てようとしたら、その主婦に漂白したらまだ使えるやん、と指摘されたことを書いている。

これをしみったれと思うか思わないかは、その人次第だ。

 

著者は、そこから、京都の人の「使えるものは捨てない」「買ったものには責任を持つ」という生活信条を引き出す。

「古くなったものは捨てる」「古くなったものは悪い」「古くなったものはきたない」という、これまで自分が持っていた価値をひっくり返される。

京都では、古くなり、汚くなってもそのために捨てる、という行為はないのだ。

古くなり、汚くなればなるほど趣きがあると尊ばれる。

つねに新しいものこそ良い、新しいものほど美しい、として生きて来た東京での生活は何だったのだろう、と著者は考え直す。

 

著者は、家の壁が白いとけばけばしすぎる、と言う京都人に驚く。白は清潔で清らかな色だと信じて疑わなかったというのだ。白を品のない色と言う人がいるなんて考えてもみなかったと言う。
私も家の壁が白いのは嫌だ。落ち着かないし、けばけばしいと思う。

 

京都の人間も、別に古いものが美しいとか、きれいだとかは、心底信じていないと思う。
だが、ケチだから、捨てられない。
捨てられない方便として、「古いものは趣きがある」という考えをひねり出したのだ。
言わば貧乏人の詭弁である。

しかし、現在では、それがあらためて求められているのではないかとも思う。

 

スポンジを捨てるとか捨てないというのは、もったいないとか、ケチという問題では既にないと思う。

スポンジなんて、いくらもしない安い値段のものだ。しかもどこにでも売っている。買おうと思えばいくらでも買える。

それを、使えなくなるまで捨てないのは、安いからすぐに買いかえる、のではなく、いったん買ったものは使えなくなるまで使う。そういう生活信条が出来ているからだ。

大量生産でいくら物が沢山溢れているからといって、古くなればすぐに捨てて新しいものを買う、のではない。そういう価値基準にはくみしない。

他人が古くて汚い、と言っても、自分が良いと思うものは捨てない。

著者は、こういうことを京都での生活から学んでいく。

京都の人間は、どんな末端のしょうもない物品にでも、自分で価値を決め、自分で選び、選んだ物は放さない。
他人の目を気にせず、自分が良いと思うものにはどこまでも付き合う。

京都で暮らすということは、そういう、自分の目で決める、ことを学ぶことなのかもしれない。

*

この本は、後半が少し説教じみてくるのと、少しおかしな記述が散見されるところが惜しい。

お寺の建物が日本の風景には似合わない、魅力がない、瓦は日本の風景には重すぎる、と書いているあたりだ。

確かに寺院建築は中国や朝鮮の影響で作られたものだが、屋根の反りや角度は日本に来て日本風にアレンジされ、日本的に変化を遂げて来た。
南方という言葉が出て来るが、具体的にどこのことをさしているのか、記述していないのも気になるし、卑怯な気がする。
根拠のない仏教批判も浅薄だ。
著者は僧侶に何かうらみでもあるのかも。

けれどもそれらを別として、この驚きの京都体験談は記憶するに値するだろう。

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