文春文庫
ぶつぞう入門 柴門ふみ 文藝春秋 2005年 05/8/31 |
柴門ふみは、まんが家らしい。
私は読んだことがないし、今後読むこともないだろう。
ただこれは、私の好きな仏像に関する本なので、著者もよく知らないまま思わず買ってしまった。
私は、これからこの本をメチャクチャにけなすつもりだ。
だから、人をけなした文章を読むことが嫌いな人や、この著者が好きな人などは、以下は読まないで下さい。
*
私はどうやらこの手の女性ライター(作家とはとても言えない)に大変厳しいようだ。
別に意識しているわけではないのだが、女性にはなぜか、評価がきびしくなるのだ。そのわけは多分、同性嫌悪、では決してなくて、やはりものの見方が甘く、ユルいからだ、と思うのだ。
もちろん男性ライターに対しても、甘くユルい見方の人には当然厳しくなると思う。
この本を、最初は読んだあと、取り上げるつもりはなかった。
でも、わざわざこうしてレビューしようという気になったのは、「お寺に行くならこの1冊」という宣伝のキャプションや、「ぶつぞう入門」というタイトルが気になったからだ。
私は、仏像初心者として言うけれど、私よりもっと初心者の人がお寺に行く時に、この本を薦めようとは思わない。
もっとほかにいい本がたくさんある。
今時の若い人なら「見仏記」という、とても楽しい本もある。
「見仏記」を読んでいたなら、この本を読む必要はない。そういう思いで、もし、初心者がこの本を、本当に「お寺に行くならこの1冊」がいいのかと思って買うかもしれない。
そういうことのないように、つまり要するに、仏像好きならこの本を買う必要はないし、買わなくてもいい。買わないように、と言いたくなったのだ。
「見仏記」つながりで言えば、同じお寺に、同じ仏像を見に行っているので、両者の違いがよく分かるが、観察力も、描写力も、あきらかにみうら・いとうコンビの方が数倍すぐれているし、ビビッドだし、しゃれている。
柴門女史としてはユーモアか、ウケを狙った記述なのかもしれないが、面白くもなく、ジョークにもなっていないデリカシーのないそこここの文章もいただけない。
仏像という鑑賞対象に対しての態度が、今ひとつ誠実でないと言わざるを得ない。
道成寺の物語の解釈も、永観堂の見かえり阿弥陀の解釈も浅い。もちろん仏像というおごそかなものに対して、軽い態度で相対する(ことで勝負)ということは、アリだと思う。それは、「見仏記」も同じなのだから。
けれども、単に好き嫌い、というのと、対象を愛し、敬っている人との態度では、その軽さに違いが出て来るのだと思う。
柴門女史が法隆寺へ行った時の話がのっけに出て来るが、そこに、
大宝蔵院の名物と言えば「玉虫厨子」だが、それには目もくれず、…
という記述があった。
仏像を見る、ということは、何も本当に仏像だけを見ていればいいというのではないと思う。
当然歴史もそこそこ知り、そのバックグラウンドや、寺の謂れや、寺の造り、なぜその仏像なのか、などを知っているはずだろう。そして、仏像から始まって、周辺をいくらも知りたくなって来るはずだ。
それが人の自然な感情の流れというものだ。
仏像が好きになれば、そうなる。法隆寺へ行って、「玉虫厨子」を無視するという態度は、仏像好きとして、私はないと思う。
何も国宝だからありがたがれ、と言っているのではない。
真っ黒けでも、何が描かれているのかもはや判別出来なくとも、千年年以上も前にあのような細工物が造られた、ことに感動しない人間が、運慶や慶派の仏像に感動するはずがないと思うのだが。
*
ただ、東京の人が仏像を見る、ということは、旅行をすることなのだ。
日本の優秀な仏像は関西に集中しているから、仏像を見よう、と思うたびに旅行をしなければならない。
それは大変な労力で、もちろん取材費は出版社持ちだろうが、限られたスケジュールの中で、急いで見て回らなければならないから、仏像以外のものはパスしなければならない、という事情は分かるのだ。私たちのように一日一寺、お参りし、のんびりと甍を見、仏を見、庭を見て、そのあと喫茶店でも寄るかというような贅沢な時間を過ごしていられない。
好きな仏を、好きな時に好きなだけいつでも見に行ける、という環境でもない。
考えてみれば気の毒だ。そしてえらい。
時間の余裕もなく、せかせかとただ仏像を見るために東奔西走する。挙句の果てに、せっかく来たのに特別公開は別の日だった。
愚痴も出るというものだろう。まあそんなで、ちょっとは同情してしまうのだが。
★ちなみに、「ぶつぞう入門」で仏像の監修をしているのは石井亜矢子という、私の好きな人なのだが。
★さらに最後に瀬戸内寂聴との対談が載っているのだが、これはマシだった。