Book Maniacs

光文社新書

仏像は語る
何のために作られたのか

宮元健次

光文社

2005年

05/11/5

この作者は、同じ光文社の新書で、日本の庭などについて書いている。それらにも興味があり、買おうかと思っていたのだが、最近発売されたこちらの方を先に買った。

私は、今はどうしてもやはり、庭よりもまず仏像が先に来るようだ。

あとがきで、著者(まだそれほど年ではない人なのだが)は大病をし、余命あまりなく、いつ力尽きるか分からない。その慰みのために著作をし、仏像を彫ったことを告白している。
そのせいか、一読して記述が大変メランコリックに感じられるのだが、この本ではそれが良い方向に作用したと思われる。

仏像を見るということ、仏を信じるということ。それは、どういうことなのか。
ただ単に美術品としての仏像を鑑賞するだけではない、信仰の対象としての仏像に踏み込み、感じなければ、本当に仏像を見たことにはならないだろう。
そのことをきっちりと、しっかりと押えてある好著と言っていいだろう。

 

仏像には、その仏像が置いてある寺があり、その寺に仏像が安置されるいわれがある。

いつ、誰が、どのような目的でその寺を建て、そこにその仏像を安置したか。
人々は、その寺にどのような思いで訪れ、その本尊に救いを求めたか。
寺がどのような運命にさらされ、変遷を遂げたか。

最も基本的なことだが、それこそが最も大事なことである。
この本に書かれてあることは、この基本的なことだけで、しかもわれわれが最も知りたい、知るべき事柄ばかりなのだ。

唐招提寺が建てられたいわれ、そしてそこに安置された鑑真和上の像。興福寺の数奇な歴史、そしてそこに阿修羅像などのみずみずしい像が作られ、今に残るそのわけ。

六波羅蜜寺に伝わる空也上人像。
この空也上人の生涯を紹介して、そうしてそのあと、寺の優れた空也上人像を表現して、拝むしかない、と、まるで、血を吐くような激烈な字句を刻む。

空也上人に対し、著者にはどのような思い入れがあったのか分からない。が、その独白を読む時、精々しい感動が押し寄せる。

この著者にかかれば、三千院という俗に堕したかのように見える寺の本尊にも全く新しい見方を教えられるようだ。

国宝とされ、すぐれた美術品としての仏像のみが尊いのではない。人々に愛され、拝まれる仏像もまた、すぐれて尊いのだ。

仏を見る、ということは、このような謙虚さと熱い心があってこそだと思う。

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