Book Maniacs

生活人新書

旧暦は
くらしの羅針盤

小林弦彦

NHK出版

2002年

05/6/19

例えば3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句、7月7日の七夕などは、旧暦の行事だった。
旧暦は、現在日本で使われている新暦とは約1ヶ月のずれがある。

だから、現在では、桃が咲いてもいず、梅の季節なのに桃の節句と言い、本来なら梅雨の雨の中を泳ぐ鯉のぼりが晴れた空に舞い、暑い夏のさ中で雨の心配もなく遇うことの出来た織姫・彦星は現在、梅雨時で毎年会うこともままならない。

このような季節の行事の現在の不整合は、旧暦を無理やり新暦に当てはめようとしたからだ。

私は、旧暦という存在が何となく気になってはいた。
日々の暮らしの中に旧暦というものが今も根付いていることに、気がついていたのだ。

例えば天気予報で今日は啓蟄ですなどと言う。
暑さ寒さも彼岸まで、と昔の人はうまいこと言いました、なんて言い回しがある。

昔の人の方が、現代人よりも天候や季節の変化を言い当てるのがうまいのではないか、とも疑い始めた。

その一方で、6月は梅雨なのに水無月などというのはおかしい、とも思っていた。

このようなことが、すべては「旧暦」に関することだと気がついた。それで、いっそ旧暦について詳しく知りたい、と思い始めたのだった。

 

旧暦は、中国からやって来た。

日本が初めて暦をもちいたのは604年、聖徳太子の時代だそうだ。
それ以来、明治5年(1872年)の「改暦の詔」までの1200年以上、日本は旧暦を使っていた。

1200年以上!
私はこの本を読んで、この旧暦の歴史の長さにめまいがした。
そんなにも長い間、日本人は旧暦を使って日々を過ごしていたのだ。
改暦されてからたかだか130年ほどでしかない。長さの単位が違う。

これでは、旧暦が日本人の生活のあらゆるところに沁み付いていて当然だ。

明治以来、日本人は西洋の文明こそがすぐれたものとして、日本製のものはすべて駄目だとして、古い日本の風習と共に、旧暦も捨て去ろうとした。
けれども1200年も続けて来たものを、どうしてそう簡単に捨てられるだろう。

カレンダーの上では完全に駆逐したかもしれないが、行事というもの、習慣、風習、季節の名称、四季の移り変わりの表現、それらは決して捨て切れるものではなかった。
なぜなら、高温多湿の日本の気候には、旧暦の暦がもっとも合っていたからだ。

というようなことを、この本が教えてくれる。

 

桓武天皇も安倍晴明も、松尾芭蕉も赤穂浪士も、みんな旧暦で数え、旧暦で生きていた。
本能寺の変も、桶狭間の戦いも、巌流島の決闘も、新選組の池田屋事件もみな旧暦の日付で行われた。
(池田屋事件は、祇園祭の宵山に起こった。旧暦の6月14日、祇園祭は昔は6月に行われていたのだ)

歴史の教科書には、多分旧暦での日付が書かれているのだろう。でも、それは今の日付とはまったく季節感が違う。

 

現在のグレゴリウス歴は太陽の運行を基本にして作られている。地球が太陽の周りを一回りする期間をもとにして暦を作っている。
それに比べ、旧暦は月の運行を基本としている。そこが違う。

旧暦と言うのは、正確には太陰太陽暦というのだそうだ。
月が地球を一周する時間をもとに作られている。

太陰暦では1ヶ月は29.5日、1年は354日と、太陽暦とかなりの誤差が生じる。そのまま放置すると、季節的にも狂いが出る。
そこで、誤差を調節するために閏月をいれる。それが太陰太陽暦、旧暦だと言う。

月の満ち欠けで暦を作っているから、月が新月から満月へ、そしてまた新月へ変わるのを1ヶ月としているので、旧暦では15日はいつも満月だ。
十六夜(いざよい)と言うのは、毎月16日の月の形だからそう名づけられた。三日月は、必ず3日に出るから三日月だ。

実に単純な命名だが、このような月の名前さえ、我々は実感として受け入れていなかったのではないだろうか(私だけ?)。旧暦では、三日月はいつでも月の3日目に出ていた。それすら、今は現実のこととして考えられない。

 

明治以降、日本人は、いかにヨーロッパが優れ、それに対し日本はいかに駄目か、そう思い込んだ。あるいは、思い込ませられた。
そのせいで、明治以前の日本の、日本を形作って来た日本本来の日本的なものを否定して、無いものとしようとして来た。
その結果、現在の私たちの生活は不整合が起き、めちゃめちゃになった。

高温多湿の日本で背広・ネクタイが強要され、コンクリート造りのマンションが珍重される。

高温多湿の日本では、それに合わせたライフスタイルが必要であろう。いかにヨーロッパに憧れ、アメリカに憧れようと、気候や風土までを真似し、改造することは出来ない。
高温多湿で高層コンクリートビルを建ててもしょせん、我々の国の気候には合っていない材質だ。

かつて、日本はずっと中国に憧れていた。中国は、日本と似た風土であったので、まだその方が整合性があったのかもしれない。

もう一度日本を見直さなくてはならないと思ったのであった。

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