光文社
私の古寺巡礼 井上靖 監修 知恵の森文庫 2005年 05/3/13 |
この前、ドールコラムで私は良い文と悪文の区別がつく、と豪語した。
曰く、すらすら読める文章が良い分であり、終いまで読めない文は悪文であると。だが、この主張を、私はいとも簡単に今、捨てる。
つまり、終いまで読めないのは私の読解力が劣っているからであり、私の脳がひずんでいるからである。
私の脳は、それほど退化していたのである。いや、退化という現象は、もともと何らかの発展を遂げたものに対して起こることであり、もともと発達さえしていなかった私の脳に対して言う言葉ではなかろう。
私の脳は、発達どころか、最初からしわの伸びきった、カラカラのヤコブ病のような脳だったのに違いない。その証拠に、「私の古寺巡礼」という本が読めなかった。
この本はシリーズもので、日本のいろいろな地方のお寺を一級の文学者が訪れ、それをもとに書いたエッセイを収録したものである。
第一巻は京都の寺で、寺スキーならびに寺初心者の私としては、願ってもない内容である。
地元の京都のお寺だから、すぐに行けるし、行く時の参考になるだろう。
私の好きな六波羅蜜寺も載っている。永観堂も載っている。さらに、執筆陣は大庭みな子、杉本苑子、秦恒平、井上靖、大岡信、司馬遼太郎、梅原猛…などなど、日本の超一流の、そうそうたる文学者ばかりである。
これはお買い得、と思って買ったのだった。ところが、これがまるで面白くない。面白くないし、退屈だし、何だかキツネにつままれたような内容だ。
まったく面白くないので、1ページくらい読んだらやめてしまう。私の好きな六波羅蜜寺は杉本苑子が書いている。
これがまったく面白くない。3行読んだら面倒になり、もういいや、と思ってしまう。
東寺は司馬遼太郎が書いている。これも、3ページ読んで挫折した。三十三間堂は宇佐見英治という人が、南禅寺は杉本久英という人が書いているが、読んでいるうちにこれまた何だかどうでもいいや、と思い始める。
本の最初は大庭みな子の清水寺である。
これも、さっぱり面白くなく、興味が続かない。どのお寺も馴染みがあり、好きなお寺で行ったこともある。普通なら興味津々で読むはずだ。それなのに、どんどんどうでも良くなる。
これはどうしたことか。みうらじゅんのお寺案内や、南伸坊のような本なら読んで面白いと感じるのに、このような一流の文学者の、格調高い文章が、面白くないと感じる。
私は格調高い文章が読めなくなっていたのだ!「バカ日本地図」だの、「六枚のとんかつ」だの、お馬鹿な本ばかり読んでいるから、私の頭もすっかりお馬鹿になったのだ。
いやいや、それなら退化ということだ。退化ではなく、もともと「バカ日本地図」のような脳みそしかなかったからこそ、ああいう本を喜んで選択していたのだ。
愕然とした。しかしもう遅い。
私はもう日本文学は読めない。読めそうにない。あれ?それだってもともとではないか。
大庭みな子や大岡信など、今まで読んだことがあるか?
ない。
司馬遼太郎も、「項羽と劉邦」を読もうとして挫折した。
井上靖だって、「おろしや国酔夢譚」「天平の甍」などひとつも読んでないぞ。そうか…。そうだったのだ。
もともと、私は格調高い文学など読んでいない人間だったのだ。
そうかそうか、もともとか。
それならいいや。もともとだもん。(投げやり)