新潮文庫
両性具有の美 白洲正子 新潮社 2004年 05/2/3 |
白洲正子については、長いこと読む気はなかった。
いくつか理由があるが、自分の興味の対象外であること、むつかしそうだということ、そして、何より、ご本人の風貌がネックになっていた。
つまりその、私は白洲正子にあたかも森茉莉と同じような匂いを嗅いでいたのである。
つまりその、森茉莉のような、想像力ばかりを肥大させた悲惨な風貌の老女、というイメージである。
同じ性の人間として、いずれ私もそうなるであろうに、何という失礼なことか。言うにもほどがある。とんでもない。しかしこれが私の正直な思いなのであった。ただ、白洲正子の場合は、結婚していて配偶者がいる。それだけでも、森鴎外の孫よりかは幾分、悲惨さは相殺されるだろう。↑いくら言い方を変えても同じことを言ってるぞ、自分
今回のこの本は、「両性具有」という興味深々なタイトルがついているので、書店の棚の前で長いこと迷ったあげく、ぱらぱらとめくってみた上で買うことにした。
日本文化だけでなく、「オルランド」や「カストラート」を取り上げているのが、何となく面白そうだったのだ。私は、白洲正子について回るある文化圏の影(?)とか、雑誌「太陽」的な、骨董趣味は嫌いである。私はそんな風雅な人間ではないからだ。だから、そうした老人たちが集まって喜んでいるようなひなびた骨董関係には何の興味もないのであるが、まあ、足利義満と世阿弥とか、南方熊楠の美少年趣味とか、そういう方面には、ダンボ耳である。
白洲正子はどのようにそれらを捉えているのか。興味がなくもない。白洲正子にとって、「両性具有」という言葉は、正しくは、元服前の少年、声変わりをする前の少年、という意味だ。
「両性」というからには、女の要素もあるのが「両性具有」という言葉の意味だと思うが、白洲正子にとっては、少女とか女というのは全然考えに入っていないらしい。
ただひたすら、成長してしまえば失ってしまう、少年のある一時期の、ほんの2、3年の間の、危ういまでの美しさ、のことを称える。それが、彼女にとっての「両性具有の美」なのである。書かれてあることは、南方熊楠や、稲垣足穂を読んでいれば目新しいものはあまりない。
「秋の世の長物語」などは、足穂がもっと詳しく書いている。ただ、本人(白洲正子)は、もともと能役者になりたかったそうだ。女だからそれがならなかった。
それくらいの人間なので、能に詳しい。世阿弥の創出した能の作品について、あれこれ論じているのが、(私には分からないなりに)目新しい部分であった。それと、源氏物語についてだが、私は、ずっと以前から源氏物語が嫌いだった。
主人公の女たらしっぷりが嫌いだったからなのだが、今回、もっと根本的に嫌いな原因が分かった。
それはあの文体だ。どこが頭でしっぽか分からない、のめのめとした、しかもだらだらと続く割り切れない文体。
まだ、芭蕉や近松の文なら読めるが、あののめのめした、何が主語なのか分からないあれがどうも苦手なのだった。
あれに比べれば、中国の漢文の、何と男らしくきっぱりとしていることだろう。
友あり遠方より来たる楽しからずや、こういうのが良い。関係ないけど。