Book Maniacs

小学館文庫

木に学べ

西岡常一

小学館

2003年

06/4/28

物心ついてから(?)いろいろな本を読んできたが、この本は、これまで私が読んだあらゆる本の中で、間違いなく最も衝撃的で、最もインパクトのある、ものすごい本のひとつであった。

読み始めるといきなり頭をとんかちで殴られたような衝撃に襲われ、眩暈がして、それ以上読み進めることが出来なくなって、本を手から落した。
そのまま突っ伏してしばらく立ち上がれなくなり、頭痛の薬を飲んだ。
それでもまだ頭がガンガンと痛み、本を読み進めることが出来なくなり、数ヶ月放置した。

数ヶ月して免疫が出来た頃、もういいだろうと恐る恐るページを開き、今度はむさぼるように最後まで読んだ。

それくらい、衝撃度の高い本であった。

もし、私がこれを読んだのが思春期の頃か子供の頃であったら、あまりにも影響が大きすぎてもしかしたら自分の人生が変わっていたかもしれない。
ビビッドな感性を失い、感受性が鈍ってしまった今になって読んだから良かったものの、もしこれを感受性の鋭い時期に読んでいたら、どうなっていたか分からない。
もしかしたら大工になってしまっていたかもしれない。実際、この本を読んで大工になってしまった人もいると聞く。

そして、それはごく当然のことだろうと思う。
それくらい、人の人生を変えてしまいかねないくらいのインパクトを持った本なのだ。
感受性のにぶった私でさえ、これくらいにも衝撃を受けたのだから。

 

西岡常一という人は、奈良に生まれた、法隆寺最後の宮大工であった。

この本は、西岡常一さん本人が原稿を書いたのではなく、西岡棟梁に取材をした塩野米松という人の聞き書きであり、原稿は西岡棟梁の口語体で書かれている。

棟梁は1995年に亡くなった故人であり、この本の単行本の初版は今から20年近く前、1988年に発行されたものである。
塩野氏が棟梁に取材をしたのは20年以上前になる。

だが、この本の衝撃は20年経った今読んでも、いやおそらくあと20年後に読んでも、変わることはないだろう。

法隆寺のそばの宮大工の子として生まれ、法隆寺を守るために教育され、法隆寺に仕えるためにだけ生き、ひたすら研鑚し、86年という生涯をただ法隆寺に捧げて、そして見事に法隆寺を守りぬいて逝った、その西岡棟梁の生きざまのすごさに比べて、彼の語る言葉のやわらかさ、当たりの良さ、何気なさ、しかし、一本芯の通った一徹さ、これと信じたことに信念を貫く心の熱さ、何もかもが感動であり、ページをめくるごとに驚きであり発見であり、大げさでなく、その心に触れるごとにやみくもに涙が溢れて来る。

どのページを開いても、どの文章を読んでも、どの言葉をピックアップしても、感動がある。

寺をひとつ作ることは、山をひとつ崩すことである。現代の、大量生産による釘は、木を腐らす。江戸時代よりも、飛鳥時代の方が大工の技術は上であった。千年のヒノキを使ったらその塔は千年以上もつ。

だからこそ、木は神様であり、尊いものであり、寺を作るということは、神様である木を使って尊いものを作ることであり、木に感謝して、木を尊ばなければならない。

時には学者と喧嘩をしても自分の信念を通す。現場主義の職人の誇りがそうさせるのだ。頭でしかものを考えない人間には何の説得力もないという無力さ。
そんな西岡棟梁の生き方が痛快であり、胸に迫る。

 

おそらく、法隆寺が建ったその時から、宮大工は千年以上も、西岡氏のように彼とまったく同じように生き、寺を守り、直し、そして歴史に名を刻むこともなく、ひたすら寺のそばで生活をし、代がわりしながら同じことを繰り返し続けて来たのだろう。

千年以上立っていた大事なヒノキを使ったから、その寺を千年以上保たせるために。

今までは歴史に残ることのなかった人物の、最後の一人のドキュメントがこうして纏められたことは貴重だ。
そのおかげで、現代の我々はさまざまなことをそこから学ぶことが出来る。
その機会を与えてくれたジャーナリストの塩野氏に感謝しよう。

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