何となく新潮文庫
一千一秒物語 稲垣足穂 昭和44年文庫版初版 新潮社 04/6/8 |
本屋の平積みでとても懐かしい本を見かけた。
タルホの一千一秒物語。再販されていたのだ。タルホが再びブームとなるのだろうか。そうだと嬉しいのだが。
私がこの本と出会ったのはいつ頃だっただろう。中学生か、高校生か。高校生くらいの時だったろうか。
一読して、すぐさま影響を受けてしまった。
「一千一秒物語」をもじって一万一秒物語、などと題して、「お月様が消えた話」などというショートショートを書いた。
と言っても、
あの夜、私が見ている前でお月様が消えてしまった。
雲に隠れたわけではない、ただ消えたのだ。とか、そんなわけの分からないことを書いただけだったが。
「一千一秒物語」に出て来るタイトルを読んでいるだけで楽しい。
星をひろった話、
お月様とけんかした話、
ポケットの中の月、
星を食べた話、
ガス燈とつかみ合いをした話、
自分を落してしまった話、
電燈の下をへんなものが通った話、
月のサーカス
…etc,etc………あげているときりがない。
ショートショートの元祖、と評されたりもしているが、SSというよりはむしろもう詩と言ったほうが良くはないだろうか。
不条理の世界に遊ぶキラキラとした言葉の結晶。
日本の文学というものが、ウエットでじめじめした、私小説の範囲から出ようとしないがゆえに(と思っていた)、私はそうした日本文学というものを毛嫌いしていたが、タルホはそんな日本的なしがらみを軽く飛び越えて、ひとり虚空で鮮やかに輝く。
私が魅せられたのは、タルホのこの硬質の、じめじめした感情など入る余地のない、ひたすら子供の夢想に似て無邪気で天上的な世界のゆえだった。
ちなみに、「一千一秒物語」が書かれたのは、1923年。戦前なのだ。
私がタルホに夢中になっていた時は、まだ彼は健在で、京都に住んでいた。奇行(?)でもそこそこ有名な、変人であった。
タルホブームが起こり、彼の本は次々に出版され、私はそれを追いかけた。
タルホの本は、私にとって宝物のようになった。
タルホは、私にとってアンチ日本文学であった。とても懐かしい思い出だ。
もうひとつ。稲垣足穂の業績は、「少年愛」を公の場にオープンにしたことだろう。
この本に同時収録されている、「天体嗜好症」「彼等」「弥勒」「美のはかなさ」そして「A感覚とV感覚」。
殆どの作品が少年愛の雰囲気を反映している。書かれたのは一番新しいもので1954年。戦前に書かれたものもある。
足穂は孤高の人である。世の中の情勢など気にせずに心の赴くままに書いたのだ。
「A感覚とV感覚」については、澁澤龍彦が、
「従来の常識であったセックスの二元論を統一して、エロスの絶対的一元論を確立しようとした、これこそコペルニクス的転回と呼ぶにふさわしい試みなのである」と言っているそうだ(解説より)。何だか良く分からないが、私にとっては、この「A感覚とV感覚」こそ、性のイメージに対するまったく新たな認識を示唆してくれた、画期的な作品だった。
稲垣足穂は、性の感覚をまずV、P、Aという、3つで表わした。
大体お分かりだろう。VはVagina、PはPenis、AはAnusを表わす。
そしてA感覚と言う時、それはAの抽象化されたイメージを表わす。世の中はV感覚で覆われ、従来はVこそが最上のものとして(或いは、性の感覚は、Vしかないとして)扱われて来た。しかし、本当に優れている感覚は、いうまでもなくA感覚である。
A感覚こそが歴史において、芸術において最高のものを生み出して来たのだ。女体を最高だとする、マスコミに擦り込まれた男の(=世の中の)セックス感覚に、ひとりタルホは反旗を翻し、女のVなんて、Aに比べてなんぼのもんじゃい、とVをこともなげに切って捨てるのである。
(足穂には奥さんもいた。性的にはノーマルである)私は、タルホのこのA感覚礼賛に、密かに快哉を叫んだ。
世の中に氾濫するV感覚。
それは、それが最高だと信じて疑わない「男」の作り出した、幻影なのだ。
男性は―、世の中にはV感覚しかないとしか信じられない男性は―、一面的にしかものごとを見ることが出来ないのだ、ということをタルホは歯に衣着せずに喝破する。
高校生の私は、これだ、とタルホを崇拝したのだった。まだやおいなどと言う言葉が発明されてもいない、そんな存在さえなかった頃のお話である。
再販された文庫の表紙の絵は、画像のものと違っています。