Book Maniacs

ウソの歴史書の出所は

日本の偽書

藤原明

2004

文芸春秋 文春新書

04/6/22

こういう本を読んだら、絶対に腹が立ってくるに決まっているのに、どうしてわざわざ読みたくなるのだろうか。
私は自分でもほとほと酔狂だと思わずにいられないし、自分のこの業を深く因果に思う。

ここに掲げられている偽書は、まず「上記」(ウエツフミ)と「竹内文書」、「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)、「秀真伝」(ほつまつたえ)、そして「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)、「先代旧事本紀大成経」(たいせいきょう)である。

すべて偽書であり、作者も判明している。正当な歴史書ではないことは、そのずさんな内容から明かであって、作者、即発見者であることも多い。

にも関わらず、人はそれを信じ、そこに夢を馳せる。

なぜ、そんな愚かなことが行なわれるのであろうか。私の興味は、その一点にある。

 

「東日流外三郡誌」などは、昭和50年(1975年)に刊行されたが、東北地方では、これを今だ正しい歴史書として信じられているという。
むろん、その、昭和50年前後に捏造された、ピンピンの新品であるにも関わらず、そのようなことが起こるのだ。

あたかも古い言い伝えであったかのようにして、それらしく(旧家に秘蔵され、門外不出として長く公開されることがなかった、等)出て来るのであるから、錯覚が起こるのだろうけれども。

この間、ある本屋で、歴史書のコーナーに行ってみたら、その歴史コーナーに、「竹内文書」と「ホツマツタエ」の研究書があり、飛び上がるほどびっくりした。
「超古代」というくくりに入れられてはいたものの、歴史書として見られていることに、結構ショックを受けた。

「竹内文書」は、トンデモ本の最初に出て来るくらい有名なトンデモ本であって、その内容はトンデモというよりトホホである。それが、今だに大真面目に研究されているのである。

 

おおかたの日本人にとっては、けれども、「つがるそとさんぐんし」と言っても、「ウエツフミ」と言っても「ホツマツタエ」と言っても何のことだか分からないであろうし、知名度はほとんどないだろう。
(私も知らなかった。)
それはむしろ救いである。

こんなもの、知られない方が良いに決まっているのだ。

 

この本は、こうした偽書を面白おかしく紹介している本ではなく、晦渋で、非常に詳細な研究がなされていて、どちらかというと、とっつきにくい本だといえる。

偽書の出所を、徹底的に究明してゆくという形をとっている。
そこから導き出される結論は、おおむね発見者や所有者が偽造したものだろうということ。
所有者や発見者から、いくらその家に伝えられていたというその出所を聞いても、どのように努力しても正確な解明がなされないということは、それがにせ物であるからなのだ。

著者は、この偽書のありようを、あの「旧石器発掘捏造問題」と重ね合わせている。

いっけん、発掘捏造問題とは関連がなさそうではあるが、あの捏造が、正式な学術研究として受容されて行った過程には、実は確かに偽書が受け入れられていくのと同じ構造があることが、判明する。

それは、「日本が、かつて世界で一番すぐれていた」、「日本こそ世界の中心だった」という幻想、である。
この日本人のナショナリズムの構造が、偽書や発掘捏造を生むのである。

日本にはかつてすぐれた文明を持つ原人が世界に先駆けて、最も早くにいた、という、誰が考えてもみょうちきりんな説が大真面目に(日本でだけ)受容されてゆくのには、それが日本人のナショナリズム的優越感を刺激したものだったからだ。
えらい学者の先生方も、日本人はエライ、という説をいっとき信じたかったのではないか。

信じたいから、それが真実として受容されてゆく。
偽書や、歴史の捏造は、いつも、民族にとって「信じたいこと」を臆面もなく現実化してくれるから、やすやすと人々に受け入れられるのだ。
誇るべき自信も実質も、何もない人々にはとくに。

それは優越感とは裏腹な、劣等感の、或いは裏返しなのかもしれない。

日本人は、世界に比べて決して引けをとるような民族ではない。
縄文時代から、日本人は世界にも類を見ない文化を持ち、守り、発展させて来た。あえて捏造などすることはないほどに。
日本は、日本人は、日本国を卑下する必要はまったくないと思う。けれども、誤った優越感や、島国根性ゆえの、国家主義の思い込みはもっと必要がないと思う。

 

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