Book Maniacs

芭蕉ファンのエッセイ

芭蕉紀行

嵐山光三郎

文庫版2004年(単行本2000年)

新潮社 新潮文庫

04/6/29

月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり。
芭蕉は永遠の憧れであり、目標♪

 

しかし私は芭蕉を好きなつもりだったが、実は芭蕉についてほとんど知らないのだった。

あまり読んでいないからだ。

「おくの細道」は、最初は読んだが読み通していない(と思う)。読んだつもりになっているのかもしれない。
何しろ古い文体だ。そんなに多くのページ数があるわけでもないのに、読みとおすのはなかなか難儀だ。

と、思い切り言い訳をしておいて、この本は、芭蕉の旅を、ほぼ年代順に辿る。分かったつもりになっている芭蕉を、そうだったのか、と、本当に理解させてくれる、かもしれない便利な本だ。

「奥の細道」だけでなく、「野ざらし紀行」「かしま紀行」「笈の小文」「更科紀行」、そして「猿みの」や、古池やの句の成立事情までを、ほぼ網羅してある徳用である。

嵐山光三郎は、時々テレビで見かける、あの人だ。
彼は芭蕉が好きで、何度も芭蕉の旅した旅を追体験したという。
筋金入りの芭蕉旅行のエキスパートだ。

奥の細道行の同行者・曾良を当たり前に幕府の隠密、としている。

旅行の費用を、幕府が公費として出しているのである。
曾良は幕府の役人でもあった。

当時、旅は命をかけた大仕事であった。芭蕉も、明日はないかもしれない命、と覚悟を決めて旅に出た。それほどの旅を、なぜ、どういうわけで、いかにして、という今に残る謎を、あっさり解いてくれるのはありがたい。

芭蕉は大変な勉強家で、先人の文学に深く精通していた。「奥の細道」では再三、西行のことが出て来る。西行を、深く尊敬していた。
芭蕉の旅は、先人の残した文学を、自分の旅で追体験することだった。それが旅の目的なのだ。

…古今東西の名歌を読みすぎて知識満腹状態にあり、それをことあるごとに旅の現実にあてはめ、消化していきたいのだ。

嵐山氏の指摘は明快で、的確である。

ここで西行が歌を読んだ、ここで兵士たちが戦った、そこを訪ねて昔に思い馳せることが、風雅であったのだろう。

 

それとは別に、もうひとつ、嵐山氏が強調しているのが、芭蕉の衆道、すなわちこれまでタブー視されていたとされる芭蕉の同性愛についてである。

けれども、芭蕉の衆道についてはすでに、かなり研究は進んでいるのではないだろうか。

芭蕉の相手は、名古屋の俳諧の弟子、坪井杜国であるとされている。

芭蕉の晩年、京都嵯峨野で書いた「嵯峨日記」に、

わが夢は聖人君子の夢にあらず

と書いた、その芭蕉の夢に出て来たのが、先年死んだ杜国であった。

奥の細道行の前の前の旅、「笈の小文」(おいのこぶみ)は、芭蕉の生前には書物とはならなかった。
これが、杜国との旅を綴ったものである。

その浮かれた旅が終わったあと、二人は京へ行って歌舞伎などを見て、るんるんと楽しんだ。

これでは隠しようがない。

私は、この臆面もない杜国への思いを、しかし、あるいは芭蕉お得意のフィクションだったかもしれないと思っている。
二十代も後半の杜国を「万菊丸」と名乗らせるのは、わざとらしすぎるのではないだろうか。

芭蕉が目指したのは、性愛ではない。衆道である。それもかなり抽象化された、観念の衆道。

いや、本当は、それが事実だとしても、フィクションであったとしても、どうでもいいのかもしれない。
芭蕉はそこに理想を描いた。

白げしに はねもぐ蝶の かたみかな

白げしは杜国で、蝶が芭蕉だという。
羽をもがれた蝶が芭蕉である。

杜国との別れの時、自分の羽をもいで、白いけしの花である杜国に形見として与えよう。そういう句であろう。

杜国への想いを、ぎりぎりの恋として、そこに美しく理想を描き出した。
衆道とは、抽象化された愛の理想のことをいう。それでいいではないか、と思う。

嵐山氏は、「笈の小文」を禁断の書、としているが、江戸時代、衆道は決して禁断でも何でもなかったはずだ。恥ずべきことでさえなかった。それは、愛のひとつの美学であったと私は思う。

 

…おやおや。嵐山氏の本のことを何も言っていないけれど。まあいいか。

ちはやふる奥の細道へ

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