Book Maniacs

伊能忠敬の歩いた日本

渡辺一郎

1999年刊

ちくま新書

04/6/15

伊能忠敬の業績や、人となりについて書かれた本はいろいろあるかと思う。いろいろ捜し歩いたのだが、たまたま目に止まったのがこの本で、忠敬の履歴や業績を過不足なく分かり易く網羅してあるので、忠敬を知るには恰好の入門書かと思う。

 

伊能忠敬は、昔の上総(かずさ)の国、今の千葉県に生まれる。幼名小関三治郎。17歳の時、伊能家に婿に入ったとある。

伊能家は酒造業で、「忠敬は商才を発揮して伊能家を隆盛にする」。
酒づくりの他、運送業、米の売買、金融業などにも手を広げ、「隠居する49歳までの32年間に家産を20倍くらいにした」という。なかなかに…というか、かなり商売上手の商人だったらしい。

49歳で隠居し、28歳の息子、景敬に事業をゆずる。

49歳というと今の尺度では早いと思える。けれども、当時としては一般的な年齢だったのではないだろうか。
隠居という、今の考え方とは少し違うように思う。

事業を営む商人は、50歳くらいになると隠居して、それぞれ自分の興味や、得意な分野に行って勉学・研究をする、というのが、江戸時代の商人の一般的なライフスタイルだったのではないか、と思うのだ。

江戸時代においては、生涯の前半では、生活のためにお金を稼ぎ、働くが、そこそこの年になったら働くことから学問をすることに人生をスライドさせて後半生を費やす、というシステムだったのではないか。

忠敬はそれが、たまたま天文学であった。
他の人の中にはきっと医術とか、或いは芸術系に行って絵を描く人などもいたに違いない。
それは、手遊び(てすさび)というような暇にあかせて、というものでなく、本格的な勉強であった。

忠敬がひとり隠居してからすごい研究をやった、ということではなく、江戸時代には、裕福な商人は誰もがこのようなシステムで人生設計をしていたのではないか、と私は思うのだが。

 

で、忠敬は江戸へ出て、幕府天文方、高橋至時(よしとき)のもとに入門する。

商人として、お金を勘定していただけあって、忠敬は数には強かったのではないか。だから数学を志したのだろう。
学問を文系、理系に分けると、忠敬は理系を選んだということだろう。
理系には数学、天文学、暦学などが含まれる。

高橋至時は、忠敬の理解者として、よく導いた者として有名だ。
忠敬よりも19歳も若い先生として、二人の交際を、忠敬伝などでは感動的に伝えられる。この人との出会いによって、忠敬の才能は開花した。

至時はもとは同心だった、と書いてある。天文・暦学を当代随一の学者に学び、俊才として知られた。
寛政の改暦のために幕府に召し出され、天文方に抜擢された、と。
頭の、きわめて良い学者だったようだ。

忠敬は、この若い師によく師事し、熱心に勉強した。
至時は年長の、熱心で真面目で、忠実な弟子を頼もしく思ったことだろう。

 

幕府天文方に入ってまもなく、忠敬は暦学者の間で、地球の大きさが問題になっていることを知る。

暦局のある浅草と、忠敬の住居のある深草が緯度1分半であることが分かっていた。
であるから、忠敬はこの距離を歩いて測り、緯度1度の距離を求めようとした。

その時の地図が残されている。
本当に、歩いて測ったのである。

しかし至時は、「深草と浅草の距離を測って地球の大きさを決めるのは乱暴過ぎる」と言ったとか。

そこで、蝦夷地あたりまでを測れば正確な値が得られるかもしれない、ということになって、表向きは蝦夷地測量・地図作成として、実は地球の正確な大きさを求めるという、このプロジェクトが始まることになったのだった。
もともとは、天文学の学問上のやり取りから始まったことだったのだ。

忠敬は、このプロジェクトに大乗り気になったようだ。

ただここで、幕府の許可は出たが、補助金は少ししか出なかった。
忠敬は、不足分を自費で賄う。
というよりも、殆どが自腹であった。

 

何の見返りもない、自分のお金をすり減らして、することといえば地球の大きさを知ること。

そのたんなる知的欲求のために、今まで苦労して稼いだお金をつぎ込む。

今の日本人には、考えられない精神構造かもしれない。

誰もが金持ちになることを望み、お金を儲けることに精力を注ぎ、少しでもたくさんお金を貯めておきたいと思うものであろうのに、この忠敬の精神のありようは、不思議に思える。

だが、それが江戸時代の商人の、その頃のごく普通のありようだったのではないだろうか、私にはそう思える。

お金のためにあくせく働くのは、人生の半分だけでよい。
そこそこお金が溜まったら、それを自分の研究につぎ込む。自分のしたいことにお金を使う。

お金を貯めても墓場までは持って行けない。生きているうちに使わないで、いつ使うのか。
そうでなければ何のためにお金を儲けたのか。

しかも忠敬は、伊能家を隆盛にして、大金持ちである。家督は息子に譲り、家が傾く心配もない。
自由に使えるお金が山ほどあるのだ。

「地球の大きさを測る」という、壮大なテーマ。よし、これに自分のすべて、自分の後半生をかけ、お金も何もかもかけて、これを後半生の人生のテーマとしよう、忠敬はそう、決心したのではないだろうか。

確かにそれは、人生をかけるにふさわしい壮大なテーマであったと、思えば思えるではないか。

 

***

 

忠敬は苦労して蝦夷(北海道の南のみと、奥羽)を測量し、無事に帰還した。
出来上がった地図を見て、師匠の至時はおおいに喜んだという。

その地図が残されている。

北海道全域ではないので、完全ではないが、道南の海岸線は詳細で美しい。
この仕事を認められて、忠敬はすぐに第2次測量(東北地方)を命じられる。
完全に幕府下の官製事業となったのは第3次以降であったという。
幕府からの補助金も増えた。すべて国の金で賄われるようになったのは第5次以降だと展覧会の説明にあった。
こうして、個人事業としてスタートした、「地球の大きさを測る」試みは、日本地図作成の国家事業となった。

 

測量は第10次まで行われ、最終的に、北海道を含む日本全図が完成した。
忠敬は、日本全国を測り終えたあと、ほぼすぐに病を得て没した。

日本の東半分の測量を終え、半分の地図が仕上がった時点で、時の将軍第11代家斉に提出されたという。

その時将軍は、この、上覧に付された地図を見て、どのような感想を持ったことだろう。私は、いつもこのことに思いを馳せる。
大図69枚。江戸城の大広間いっぱいに広げられた日本の図を見て、将軍は何と思ったことだろうか。

何という苦労をしてこれが作成されたことだろう。いや、そんなことより、この日本、このように美しい国日本を統べている自分に、誇りを感じなかっただろうか。
おそらく師・高橋至時がまた、最初に忠敬の地図を見た時も、同じように感動したのではなかっただろうか。自分はこのように美しい国に住んでいるのか、と。

 

伊能大図は全部で214枚で日本全土をカバーする。

10次測量のあと、最終的な地図の完成を見る前に、忠敬は没した。遺言には、先に死んだ師、高橋至時の墓の側で眠りたいとあったという。
二人の師弟愛は、生涯変わることはなかったと見える。

伊能図は、完成はしたものの、幕府のトップシークレットとして、長く公開されることはなかった。一般市民のものとして刊行されるのは、明治になってからだったという。

伊能図がその後、最終的に現在の地図に取って代わられたのは昭和4年、つまり昭和に至るまで、伊能図は部分的であれ、生きていたことになる。

 

私は、自分がなぜこのように伊能忠敬に惹かれるのか、はっきりとした理由が自分で分からない。
けれどもこうして、忠敬の業績を辿ってみると、いろいろと詳らかになって来るようだ。これらのことすべてに惹かれるのだ。理屈ではなくて、すべてが。そのように思うしかないようだ。

伊能忠敬の日本地図展

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